好きな気持ち-自我復元後日記[098]

T先生の演奏会に行ってきました。

ある曲を歌われた時、
それは本当に、まわりは海のようでした。
「(オフィス街のこの街が)海だと思って、聴いてみてください」
そう言って始まったその歌は、本当に、そのようだった。

3ステージあって、どのステージも違う曲が演奏された。
1時間毎、なのだけれど、演奏は1ステージ30分から40分で、
次のステージまでは、数十分、歓談のような時間。

今日、とても印象に残ったのは、
この歓談は、ジャズや音楽の話の雑談で(Jazz Barなのでお客さんも6人でした)
ギタリストの方がさりげなく弾きながら、バックに流れるジャズにあわせて
「あ、ここ、こんなことやってるんだ」とか、あれこれ話していて、
それがとてもよかった。

少人数なので、一緒に歓談している感じ。
その時間、私は踊りのことを思ったりした。
音楽もいろいろな技術や歴史がある。
踊りももっと僕は知りたいなぁっ!って。

今、私は、本当は心細い。

だけれど、確かに拾い上げているもの、
確かな手触りを、私は見逃さないように必死なんだ。

それは、今まで奪われてきたものであり、
今も私は、ちゃんと目を開いて見ないと、見逃してしまうようなもの。

それは、ご飯を食べる時もそう。
美味しい、と感じること。

さっき、生のプルーンをご飯にいれて炊きこんでみました。
食べると、甘いんです。
軽く一膳食べました。
甘いな、美味しいな、そんな、こんな気持ちも
私は、手放しちゃダメなんだ。

歓談の話を聴きながら、
私は踊りのことを考えていて、
まだ始めたばかりだけれど、随分、踊りを見たな、とか、
「メラコリ」とか「グラリア」とか略称でも、ああ、あの踊りのことだね、とか、
そうやって、今、自分が少しずつ知識を積み重ねていくことと、
演奏者のお二人が音楽経験を積み重ねていくこととが、
同じように歩んでいるようで、私は聴いていて楽しくて、
何もしゃべらないでいる時でも、楽しい時間だった。

こういったことを、私は、書いたこともないし、
記憶にとどめておこう、とすら思ったこともなかった。
本当は、これが、私の「日記」なのに、だ。

面白かった、楽しかった、
こういう、何かを好きに思う感情を
私は一度も大切にしてこなかった。

そして、どうでもいいことに、
私の人生すべては、すべて、振り回されていた。

そうだ、このところ私がとんでもなく疲弊するのは、
今までのこの「振り回され様」を、今一度、
この身体で実感しているからであり、
しかし、同時に、完全に拒絶している、からだろう。
でも、何度も言うように、この疲弊を私は恨みもせず、
また意味付けや解釈をしたいとも、もはや、思わない。

私は、自分が、今、
今自分が見るべきものを見ているのか、
それだけに関心を向けている。

私は、今日、歌を聴きながら、
「あ、この歌、歌いたいな」そんな思いで、ずっと
T先生の声を、顔を、姿を見ていた。

演奏会が終わり、お別れの頃、
「どのステージも、あれ、歌いたい、っていうのがあって、
ずっと、そんな目で、今日は見ていました」
と、みんなの中で、話したりした。

さすがヴォーカリスト!、なんて、T先生は言う。

私が打身という南米の楽器を弾いていることなどが
その場の話題になると、ギタリストの方も
「それ、大きさはどのくらいなの?」とか話をしてくれて、
最後には、こんなことを言ってくれた。

「今度、一緒にセッションしましょう」

って。ドレミしか弾けないような私は、
「頑張ります!」と言い、私は、本当に、嬉しかった。

お店を出る時には、T先生(今日は先生、というより、素敵な歌い手さんでしたが)は
「ありがとうございましたぁ!」と、両手で握手をしてくれた。

帰りの電車で、今日のことを振り返った。

「好きなんだ」

と。音楽も、踊りも、私の前に、今あるもの、すべてが
どれもが愛おしく、私はそれらが好きなんだ、って。

今日は、「私が」みんなを好きなんだ、と感じたこと。

これは、私がみんなから好かれること以上に、
私には自分で嬉しいことだった。
むろん、好かれることと好きに思うことは同じなのだけれど。

「愛美さん、今日は来てくれてありがとうございます」
という先生を、
「一緒にセッションしましょう」
といってくれたギタリストのNさんを、
こうやって他者をこれほどに「壁を感じずに」感じたことは
今までになかった、と思った。

私という存在を、ただ、優しく受け入れてくれている。
普通に話し、普通に見てくれている。
それが、私は気持ちよく感じることができたんだ。

これは、

他者が向けた私への感情のように思えるけれど、
そうではないんだ、と。
私が他者に向けた、この「好き」という感情。

人だけじゃない。

音楽も、踊りも、そして、博士君にも
私は、ただ、好きだった。

今日、演奏会に行く前に、
目の裏にたまっていた涙は、
今、私には、それは「好き」という感情の塊のように感じる。

屈辱と尊厳

そんなことを書いた。

私は、このところ、奪われたものと、取り戻したもの、
その両方を、目の前で、それこそ、麻酔無しで、
「見せつけられている」感じなんだ。

かつてなら、それは、格闘のように思っただろうけど、
今のこの対峙は、格闘とは違う。
私は、この対峙を、解消しようとはしていない。
ただ、どんな現実であろうと、
その中で、私は何を見たいのか、
その神経が失われていないことを、日々、実感したいのだ。

いや、実感せずとも、
私は、もう、始めているし、
迷わず、進む。

でも、これがこんなにも
心細いものなんだ、と。

同時に、それは歓喜するほどに
満ち足りている。

私は、今、自分の状態を
おかしい、とは思わない。
こういう板挟みのような感覚をダメなものとも思わない。

私が嬉しいのは、
今、私は、そう、やはり、そこに戻るのだけれど、
私自身が、私の親の位置にいる。

今、私の中で起きていることを
残酷なまでに、どれも見落とさず、
ただ、じっと、見ている。

その中で、私がどうしても拾いたい、
その一心なのは、

「好き」

という、それは本当にちょっとした風で消えてしまいそうに
今の私は感じてしまう、この感情。

でも、私にはわかっている。

私が今、動いているのは、
この感情だけで、ということも。

この「好き」という感情だけで、
手を、口を、身体を動かそうとしている。


・・・


夏はスイカに、随分、助けられました。

それから、イチジクやプラム、今まで
食べたことがほとんどない果物を食べました。

秋になるにつれて、この頃は柿が美味しいです。
寝る前は、消化のいいもの、と思って
柿を食べたりしています。
柿の甘さは、優しい甘さだなあって思いました。

生のプルーンは、生まれて初めて食べました。

皮は剥くんだろう、と思っていたので
剥いてみると、とても剥きにくくて。
昨日、そのまま食べてみたら、おそらく皮と身の境に旨みがあるのか、
皮のままのほうが美味しかった。

さっき、調べてみたら、
皮のまま食べても、むしろ、そのほうが一般的みたい。

真冬の頃だったから半年くらい前だけれど、
合気道の稽古の隙間に、隣接の図書館があって、
そこで「プルーンのひみつ」という小学生向けの漫画を読んだことがあって、
そこに、そういえば、「プルーンおにぎり」というのがあったのを思い出した。

それはドライフルーツのプルーンだったけれど、
生でもいけるんじゃないか、と思って、
お米一合と四分の一に対して、四粒のプルーンを刻んでいれて炊いた。

食べてみると、
ほんのり甘くて、寝る前だけれど、
おなかによさそうでした。

色も淡い紫色で、味も色も、上品です。

d0331270_413316.jpg




◆自我復元に関する資料◆

無明庵サイト「桜の間」
http://mumyouan.com/k/sakuranoma.html



2016.10.08
愛美

●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
[PR]
by jh-no-no | 2016-10-08 04:10 | 愛美通信☆メトロノート


<< 心細さ-自我復元後日記[099] あたり前を取り戻すために懸けた... >>