(前半)鏡、注文しました!-自我復元後日記[095]

買おうかどうか、ずっと迷っていた全身が映る鏡。

よし、と決心して、
今、注文をしました!

踊る場所を考えていたのですが、
今まで考えていた場所とは違う、2Fの畳の部屋にしました。

ここからなら、PCのモニターの向きを変えるだけで、
ダンスの練習ができることを発見。
(家の間取り図がないので、私しかわからず、すみません)

どのくらいの幅と高さがあれば、
全身が映るか、を踊りながら測定してみると、
畳一畳分の鏡の大きさがあれば、OK。

と思って、注文サイトを調べてみると、
「90cm×180cm」が大型の標準サイズ、さすが、ダンス用。
やってみてわかったのが、高さよりも、
両手を横に広げた時、意外と、幅がいるんだなあ、と思ったこと。

鏡を今まで買わなかったのも、
ダンスをやってみて感じているのは、
「鏡を見ながら振り付けを覚える」というのは、
どうも、ピンとこなかったから。

ダンスが面白いなあ、と思うのは、
動きを「形」を真似しても、そのように踊れない、ということ。

それよりも、一番大切に私が思っているのは、
「そう踊りたい、と強くイメージすること」
そして、そのイメージをもって、まずは、思いっきり、楽しく踊ること。

昨日思ったことだけれど、
楽器もそうだけれど、何が楽しいか?というと、
正しく、上手くできる、ことでなく、
「こう弾きたい、こう踊りたい」というイメージに乗っかって、
なりきっちゃっている、この時が楽しい。

実際、みんなで踊るダンスレッスンの時は、
鏡は見たりしない。
前に立った人の後ろ姿を見ながら、そのように踊ろう、と見て、
そして、踊る。

・・・じゃあ、なんで鏡買ったの?ということ。

「踊る自分の姿が見たかったから」

なんだよね。

ただ、これだけなんだ。

でも、鏡が欲しい、やっぱり欲しい・・・

本当に欲しい。

そう思った時、私は夜中、いきなり
畳の部屋を広くし、手がぶつからないように蛍光灯の傘の高さも高くし、
PCモニターの向きを変え、小ぶりな鏡を置いてみて・・・
窓を開け、すると、夜がだんだん明けてきて、
気持ちいい風が流れこんできて、私はメジャーを持って、寝るのも忘れて、
踊るふりをしながら、よし、この大きさの鏡を探そうと、
私は、そうやっている間、元気だった。

実は、私が起きてしまったのは、
ダンスのことが頭にあるから、というのもあるけれど、
一番の理由は、「おなかがすいたから」だった。

私はずっとこれが続いているのだが、
寝て2時間もしないうちにおなかがすいて起きてしまう。
そして、何か食べる。

胃に負担がなるべくないようにと、
本当は食べないようにしよう、と思っているのだけれど、
少量なら、と、また液体に近いものなら、と思い、
食べてしまう。

さっきもそうだった。

3時に寝て、5時前に起きてしまう。

ああ、またか、と。

パンが一枚あったので食べたけれど、
私は、ふと、うどんが食べたくなった。

いつも、こういう時、悩んでしまう。

だけれど、今日は、悩むのをやめて、
食べよう、と思った。

早速、うどんをゆで、
つゆは、水に醤油と塩を少々、砂糖、生姜を入れて
そこに卵を落とす。ゆでたうどんを冷水でさらして食べる。

私は、ふと、キッチンではなく、
その2Fの畳の部屋で食べたくなった。

2Fに行き、窓を開けた。

畳の上にお皿を置いたけれど、
ちょっと低いな、と思って、そうだ、と窓を開けた。
窓の枠の所にお皿をおいて、
まだ薄暗い外を眺めながら、うどんをすすった。

いつもは罪悪感でいっぱいになる夜中の間食は、
とても今日は楽しいものだった。
夜風が涼しく、とても気持ちよかったからかな。
いや、私自身が、食べるのなら楽しく食べたい、そう思っていたからかな。

いずれにしても、その畳の部屋は空気が入れ替わって、
畳もさらさらしてきた。

私はまだ目がさえていて、
食後、畳に足をのばし、引き出すを背に寄りかかっていた。
少し、ゆっくりしたかった。

この頃、なぜか、眠れない。

仕事の休憩時間は爆睡するし、
7時間以上寝ないとしんどい状態なのはわかっているのだが、
なかなか眠れないのだ。

踊っている自分のイメージがたいてい頭の中にあって
浅い眠りに入っても、意識は踊りの姿。
こんな毎日が続いている。
すると、おなかがすいて起きてしまうのだ。

話は戻って、うどんを食べた後、
寄りかかって見ていたその目線の先に、
私は、ここに鏡を置こう、と思った。
それで、いそいそとメジャーを持ってきて、
眠りどころか、目覚めてしまった、というわけ。

うどんもそうだし、
鏡を買ってどんどん踊っていこう、と思ったのもそうだけれど、
私は、やっぱり、好きなことをしたいんだ。

あれこれ悩むよりも、
やってみたい、と思うことを、まず、やってみたいって。

身体のことだけれど、
昨日の仕事中、自分で自分の身体を感じながら仕事をした。

意識をおなか(尾てい骨)まで下げる、というのを
このところやってきたのだけれど、
昨日はこれに加えて、新しいことにチャレンジした。
先日から少しずつ始めていたことだけれど、
昨日は、このことが、全身にどう作用するか、を感じるように心掛けた。

それは何か、というと、
息を吸った時に(腹式呼吸)おなかが膨らむ状態を、
吐いた時(つまり、お客さんに言葉を発している間など)にも
できるかぎり、「おなかがへこまない」ように、
「内側から外に向けておなかの力を自分でかけていく」という作業。

これは、実は、前回の歌のレッスンで
指摘された3つの注意点のうちの1つだった。

「おなかに力をいれる、というと、よく、ぐっと力をいれて
逆に自分からへこませてしまう人がいるけれど、そうではない。
息が出ていけば、おなかが自然にへこんでいく。
それを自分からやってはいけない。自分自身は、むしろ、へこまないように
外に向かって内圧をかけていくこと、これがおなかに力をいれる、という意味です」と。

私は、もしも、これが単に歌の指導としてきいていたら、
「そんなものか」で終わっていただろう。

しかし、私は、職場での仕事中は発声練習をしよう、とした時、
どもることとの関連から、とても重要なことに気づいた。

私は、長く、恐怖心により委縮をしていた。

これがどこに症状として現れるか、という発見だった。

まさに、「自分からおなかをへこませてしまう」のだった。
というよりも、力なく、風船がしぼむように、空気がおなかから抜けていく・・・
恐怖心のさなかにある時、まるでおなかはしぼんだ風船のようであることを発見した。

どもる症状については、症状としてもう無くなった、といえる。
それは、随分、続いているから、症状は出なくなっている。
だけれど、自分でも書いたように、どもる、とは、
心理状態のことだから、「上手く言えないかも」という恐怖心があると、
それ自身が、どもっている身体状態であり、たとえ言語として言えたとしても
身体には違和感が残るのは当然なのだ。

この違和感が、まだ、時々訪れた。

それも、どういうタイミングか、というのも定かではなく、
違和感がない時もあれば、違和感が強まる時もある、といった具合だった。

そして、まず発見したのは、
その違和感がある時、というのは、おなかの状態がしぼんだ風船のように
T先生が指摘する意味での「おなかの内圧」がゼロなのだ。

おそらくだが、
その時、自分の意識は「胸」あたりにある。
かつて、私はこの感覚を、「脳の中心から堕ちる」と感じていたものだ。
たしかにそれはそうなのだ。

だけれど、一方で、今は、上から落ちてしまう、というよりも、
おなかの「支え」がないために、ふわりと「自動的に」胸あたりに意識が浮ついてきて、
実は、そこで何が起こるか、なのだが、
肩、首、あご、舌に力が入る、肩、首、あご、舌が「力む」という状態になる。

委縮、というのは、
恐怖心によっておなかの力が入らず、逆に、
肩、首、あご、舌に力が入ってしまう、そんな状態のことだと私は感じた。

昔、私はチックや、特に、
「首の骨を鳴らす」という癖があったが、
この首の骨を鳴らす、というのは、首に相当に力が入らないとできない。
逆にいえば、首に相当な力が入っていたために、
首の骨を鳴らすことで、一瞬、解放させていた防衛だったのかもしれない。

T先生が指摘した3つの注意点のうちの一つに、
「上あごを上げる」というのがあった。

これは、喉がしまってしまうのを阻止するため、ということで、
私は高音になると力んでしまって喉が閉まってしまうため、
のどがむずがゆくなる。「なんだか、かゆくなってしまいます」と伝えた時、
この原因について説明していただいたことだった。

これに加えて、こんなことも言われた。

「高音になると、声が奥まってしまうみたいですね。
舌の先が下の歯の裏についていますか?」と。

えっ?と思った。

私は、舌の先は、下の歯についていることなんて、
逆に、そんな時あるのか?と思ったからだ。

「舌の先を下の歯の裏につけながら、会話できますか?」

と言われやってみると、できなくはないが、
やったことがない口のありかただった。

私はつねに、舌が後ろにひっこみ、
つまり、舌に相当力が入っているのが常態といっても過言ではなかった。
いや、それは極端かもしれず、リラックスしている時は、
人は自然に舌は下の歯に軽く触れるのだろうけれど・・・
これも、職場で感じたが、どもることを強く意識すると、
どんどん、舌は奥まっていった。これにも、最近、意識して観察していたことだった。

注意点の最後は、
「遠くの一点、ここに絶対届かす、というふうにして声を出してください」
というものだった。

これを指摘されたのは、
こんなことがあった時だった。

高音になると、先ほどの理由で喉がむずがゆくなり、
反射的に声を出すのを「セーブ」してしまう。

このことを、T先生に伝えた時、
先生は、はっきり、言った。

「喉をもしかしたら最初痛めてしまうかもしれません。
でも、それでも、出してください。
セーブするのが、一番よくない。いいですか、どこか、一点を決めてください。
そして、どんな音の高さでも、絶対そこに届かす、絶対出す、と思って出してください」と。

この3点を意識していると、
毎回ではなくても、何度か、先生が聴いた時に「よく響いている」という時があり、
「○回目の声がよかったです」と指摘してくれる。

「うまく響いた事例を増やしていくことです。
今の愛美さんには、この3つのポイントが効果的、ということです。
いずれ、またバランスが崩れる時がくるので、
その時はその時で、また、やって(工夫して)いきましょう」と。

まとめると、

1つ目は、おなかの内圧を落とさないこと。
自分からへこませることなく、むしろ、へこまないように
外に圧をかけていくこと。これがおなかの支えになります、ということ。

2つ目は、上あごをあげて、喉をしめないこと。
加えて、舌を下の歯の裏につけるように意識すること。
必要あれば、肩を動かしながら、発声すると余分な力が抜けるので動かしてみること。

3つ目は、「出せるだろうか」でなく「出す」と決めて、
一点を決めて、そこに絶対届かす、として声を出すこと。
・・・この3つ目は、まさに、自分がどう見えるか、でなく、
自分はどうしたいのか、という、主体性の獲得、顔色を伺うACの習慣を
絶対に許さないこと、といえた。


こういった、歌のレッスンと、職場での発声を意識した声出しによって、
はっきり、理解したことがあった。

かつて、

私のあの顔色を伺い、恐怖心でおなかに力が入らず、
胸に意識が浮つくやいなや同時に、肩、首、あご、舌に力が入り、
力み、こうやって委縮し、自分がどう見えるか、これでいいのかどうか、
こういったことばかりに意識が向けられ続けた40年以上の間、

私は、

まったく、

「歌など、もっとも、出来ない芸当だった」

ということを、明確に理解したのだった。

自我復元では、脳の中心に意識の中心が移ることで、
「胸に自分がいる」というこれまでのAC人格の居場所を
客観的に見ることになった。

結果、胸に堕ちる、ことが、
猛烈に不快であることを、実感してきた。

ゆえに、堕ちまい、としてきた。
その時期のことは、ブログにも書いたきたし、
私が自我復元後にまず取り組んだことだった。

その後、「私の生き方」を模索することになる。

そして、私は、
私自身が「毒親でない自分の親」であり、
自我復元を自分自身で区切りをつけ、
愛美という名前で新しくスタートすることで、
「まわりから影響を受け、まわりに影響を与える存在」
として、自ら、その世界に入っていった。

なぜなら、それは、
私はもう避けることではなく、安心してやれることだったからだし、
私には、それが、心地よく、楽しく思えたからだ。
「1/2の速度帯」というのは、それに向かい始める試行錯誤、準備だった。

そして、少し前に書いたように、
私は、「このままでは、まったく楽しめない」という感覚とともに、
身体の状態も、このままでは、まずい、という実感が訪れた。
頭で考えて、というよりも、もうこうせざるをえない、というふうにして
私は、職場の休憩室のソファーに横たわりながら、
意識を胸をすとっばして、おなか(尾てい骨)にまで落とした。

その時、ちょうど、歌のレッスンが始まり、
この「歌のレッスン」が今までの合気道や居合、打身、ヒップホップダンス、
これらと大きく異なったのは、「おなか」を支えにしていく視点が加わったことだった。
たまたまだが、私の注意は、おなかに集中し、
胃腸や腎臓といった消化器官の異常も、この「おなか」に位置している。

そこで、仕事中、お客さんに話す時、
「おなかを自分でへこませず、むしろ、へこまないように意識する」訓練をスタートする。

そこで、気づいたのは、
おなかに力が入ることで、
今まで力が入りやすかった上半身(とくに、肩、首、あご、舌)に
それほど力が入らなくなっているようだ、ということだった。

かつ、「自分がちゃんと言えているか」と自分で自分の発話を確認するようではなく、
「相手に話す」という意識だけをもって、主体性を意識し話すことは、
遠くの一点を決めて、絶対、そこに届かす、ということに通じるものだった。
初めて実感したのだが、歌とは、そうやって歌うものだったのだ。
どう歌えているか、でなく、「歌おう、歌いたい」それが歌わせるのだ。

踊りも同じに感じる。

どう踊れているか、よりも、
楽しいのは、私はこれを踊りたい、こう踊ってみたい、だから、
それを強くイメージして、同じように踊ろう、その好奇心が人を踊らせる。
子どもたちは、こうやって踊っているんだと、私は思う。

なら、鏡なんて・・・という気持ちもある。

だけれど、ここは、ぜんぜん話がつながっていませんが、
私は、鏡が欲しかった、踊る自分の姿を見たかった、
たぶん、私は、踊りをもっと研究したいんだと思う。
要は、私は、

「踊りが好きなんだ」

ということ。

寝ながらでも踊りが頭でいっぱいなほどに。

眠れない、踊りのイメージが頭ではしゃいでいて・・・
など、悲観することじゃないかもね。

私はそれほどに踊りが好きだし、
食べることも、罪悪感など吹き飛ばして
まず、「好きなんだ」と自分で認めることにした。



・・・「(後半)鏡、注文しました!-自我復元後日記[096]」に続きます。



◆自我復元に関する資料◆

無明庵サイト「桜の間」
http://mumyouan.com/k/sakuranoma.html



2016.10.06
愛美

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by jh-no-no | 2016-10-06 11:27 | 愛美通信☆メトロノート


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