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「目」を開く-自我復元後日記[089]

今、17:55なのですけれども、
これから、打身の練習、2時間程度、やってみたいと思っております。

その前に、この通信を、少しだけ、書いてみたいな、と思います。

そして、また、練習が終わったら、
続きを続けて書きたいと思うので、
途中で一度、アップをしますが、
また今日のうちに、続きをアップしますので、
よろしくお願いします。

まず、昨日、一昨日、感じていることがあります。

だんだん、自分の中から、
ゴミソフトの中でも、しつこかった「言葉の毒」が
解毒されていっているなあ、と思います。

では、「代わりに」、そう、代わりとなるもの、
新しいソフトが起動し始めているのですけれど、
それが、「感情」というソフトです。

感覚的ですが、
私は今まで目を閉じて、動いていました。
何をやるにでも、です。

そうすると、これは皆さんもわかると思いますが、
目を閉じると、より、妄想しやすい、ということがあります。
そうとは限らないのですが、私の場合、
目を閉じると、その代わりに、「脳」が動きやすい。

脳の電源がオン、になること、それ自体は
悪いことでもない、とは思うのですが、
そこで私が頼ってしまってきたのが、「言葉」でした。

ところが、昨日、仕事中、夕方、感じたことでしたが、
今、私は、「目」を開いている、そんな感じで、
ああ、私、今、言葉というのは、もう、
「通り抜けてしまっているなあ」と。

たとえ生じても、それを「溜めておこう」としない、
流れてきても、荒い目のざるのように、すぅーっと抜けてしまう、
言葉を引き留めておくような、遮断するものがない、
・・・これは、気持ちいいです。
逆に言うと、遮断癖を感じると、とても不快。

「目」を開く、と、もちろん、ここで「目」を開く、
というのは、たとえなのですが、
でも、感情が開く、というのは、目を開く、結果、
遮断するものがない、それによって
脳が動き始め言葉が支配し始める、というようなことが起こらない、
そういう感じがします。

今日、そういう生活の仕方を昨日から続けながら、
また、踊りなどの動画を見て、また自分も踊り、
気づいたことがあります。

私は、実は、
「身体能力」は高いのではないか、ということでした。

先日も、私が今、一番したいこと、
これだけはしたい、と思うのは何か、
と突然問われたら、咄嗟に、「打身を弾きたい」と言うだろうな、
と思った。

言いたいことが、今、頭の中で整理がついていないので、
わかりにくい文章になってしまうかもしれませんが、
とにかく、身体、というのを、私は、
「今までも」とても重視していたんだなあ、と思ったんです。

これは発見で、私は、
自我復元をしてきたから、ないがしろにした身体を発見したのか、
と思っていたのですが、そうでないな、って思ったんです。

しかし、これは、半分あっていて、半分間違っています。

この身体、誰が支配していたのか?
という問題です。

今まで、これが、この支配者が、
「言葉」だったんです。

ところが、今、私は、ああ、そうです、
この通信始めてよかったなあ、と思ったのも、
これは、感情の信号の地図なんですね。
今、私は、こうやって文字、言葉を使って書いていますが、
誰が書いているか、というと、感情なんです。

この前、打身のレッスンでも、
「打身力は高い、だけれど、音楽力がついてきていない。
だから、音楽力をつけていけば、またぐんと、進んでいけると思う」
と先生がおっしゃったように、だからメトロノームを使い始めたわけですが、
そのメトロノーム、何か、といえば、「感情」なんです。

ここまでにしましょう。

また、後で、続きを書きたいと思っていますので、
続きもご覧いただけたらと思っております。

では、自主練に行ってきます!


・・


20:49、正味1時間30分くらいだったのですが、
自主練が終わったので、続きを・・・

で、何を書いていたか、ということですが、
あまりさっき書いたことにこだわらず、行こうかな、と。

メトロノームをつけながら、
「茶」の曲の最初の数秒を、1時間30分かけてやっておりました^^;

途中では、左手がワナワナ震えたりしたりして・・・

でも、思ったなあ。

まったく、新しい、体験なんです。

曲の出だしの数秒を、1時間30分没頭してしまうくらいに、
同じこの曲の練習をしていた今までとは
「世界が違う」んです。

全部が、新しい。

それは、何かと比較して「新しくなったなあ」とか、
ましては、あれはダメだったけど、これはよくなったとか、
そういうんじゃないんです。

まったく、新しい時間を
私は過ごしているんです。

メトロノームが鳴っている、
ただ、それだけ、なのに!

なんだろうなあ、、、これって。


・・・


実は、今書き始めたばかりなのに、
10分で中断、見たい生動画がありまして・・・

21:52、再開です。

その、今見たPCでの生放送なんですけれど、
初めて、生放送、というのを見ました。

先日、ブログにリンクさせていただいた
踊り手さんの生放送だったのですけれど、
内容、というより、初生放送に興味があって。

この頃、私もブログを書く時は
生放送のようなつもりで書いています。

書き直し、とか、できるけどしないようにして。

そうすると、真剣さが違うんですよ。

今も動画見ていて、こうやって毎日生きる、
その姿勢があるのとそうでないのとは、
生きている時間の感覚とか、居る場所の感覚とか、
見ている方向とか・・・そういうのが、違うんです。

それと同じ、とは言いませんが、
メトロノームを使っての練習、って似ています。

D先生がおっしゃったように、
「メトロノームは止まってくれない」
そう、その世界観なんですね。
その中は、妄想も介入できないのかもしれないです、ね。

今まで、こういう動画を見ても、
それは自慰の後の興ざめのようなもので、
「何やってたんだろう」っていうのが、今まではあったけれど、
これが、無い。

そう、こんな感じ。

「電車から降ろされた感」

が無いんです。自分の中で、これ、ぴったりくる。

さて、と。

話をこの記事の内容にしていきたい、と思うのですが。

そう、どんどん、流れていってしまって、
書いてきたことを、「思い出しながらどう」っていう感じにならないんです。

でも、滅茶苦茶か、というとそうでもなく、
私の中で、言いたいことが、たぶん、ずっと貫いているんです。

運動能力、身体能力がどうのって書いたけれど、
なんか、これ、ひっかかっているんだよね。

ん~、でも、これ、ほっとこう。

今、今感じていることは、
とりあえず、今私を支配しているのは、
感情なんです。

支配、というと言い方が悪いけれど、
そのメトロノームのスイッチをつけていて、
それに乗ろう、と思って乗っている。

それと、早速、行動したこととして、
11月に実際にその踊り手さんを生で見る機会をみつけたので、
生で見に行くことにしました。

それまで、「これを踊れるように絶対するぞ!」
というのを決めたので、これも、これから練習しよう、と。

文章で生放送、をやると、
こんな感じかしら?

ある意味、動画をとってアップするより、
タイムラグがない、感じで、いいな。
動画ももちろん一発撮りで編集なし、というやり方をしてきているけれど、
でも、アップする時は、時間が経っている、という点で、
なんか、ちょっと違う(なんか、って言っちゃうね)。

最後に、今、こう言いたいと思った。

「言葉」なんて、なんだろうな、
私にはもういらない!

今書いているのは、私が今まで「言葉」として知っている言葉じゃない。
むしろ、言葉をすり抜けさせる「ざる」のようなもの、
こういう行為、この記事、これらがざるのようなもので、
・・・もう、言葉とは、さようなら、です。

いつもね、ブログ書くと思うんだ。

書いてよかった、って。

ああ、これ書いたら、ここまで書いたら、
いつやめても悔いないな、って。

あ、そう、これ書こうかな。

足太ぺんたさん、という踊り手さんの動画を
前回思い切ってアップしてよかったなあ。
本当に、思った。

主任に似ている、って書いたでしょ。
今度、主任に会ったら、一緒に演奏会でも行きませんか?
ってお誘いしようって思っているんだ。
そのお手紙まで、もう、準備しちゃって。

それで、ここまで、やると、
変わってくるんだ。
今まで他人を見てきた目とは、変わってくる。

前にも書いたことがあるけれど、
性的な目線、これに困ったこともあったけれど、
恋愛観もそう、私は、今まで「自分が一番好き」じゃなかったんだよね。

でも、あらためて思ったのは、
私は、自分が一番、好きなの。

どんな綺麗な女性も、どんな魅力的な女性も、
絶対に、私が私自身を好きな気持ちには勝てないんだ。

それじゃあ、恋愛って何?

って思うと、私は、

「友だち」

かなって思ったんだ。

私はこれからたくさん友だちを作りたい。

主任とも、ガールフレンドになってほしいから、
そういう距離感で、接していきたいって思った。
もちろん、性的な関係を持つ持たない、ということが
友だちかそうでないかの基準ではない。

私は、ずっと他者は敵だったから。

その視点で「味方」というのは、
その人を支配することなんだよね。
世話役、というのは、いい人ぶっているけれど、
他者の人生を奪うことなんだ。

恋愛も、性的な問題も
私には、ずっと、そういうことだったから、
そういうことっていうのは、「奪う」ことが前提だったから、
すごくへんだけれど、私は、結局、こういう悩みをかかえていた。

「この人を奪っていいだろうか」

馬鹿な発想に聞こえるだろうけれど、
Pとの生活、というのは、
互いに奪い合っている依存関係だったのであり、
これが、私にとっての他者関係だった。

・・・今、そういえばどういう話をしていたのかな?
といって、スクロールしてみたのだけれど、
これは、生放送、ではできないことかな?
思い出せないのは思い出せない、ということになるのかな?

何の話してたかな・・・と思って。

「自分が一番好き」って話をしていた、のですね。

やっぱり、これ、少し書きたいね。

身体、今、どう思っているんだろう?
私の身体・・・

さっき、練習中に手が震えて、っていう話、書いたでしょ。

あれは、緊張とかじゃなくて、
生放送のようなドキドキの震えだったんだ。

気持ちいいなあって。

打身を始めた時、最初一ヶ月、
毎日2時間自主練を続け、練習ノートもたくさん書き、
必死にやったこと、あれはあれで楽しかった。

でも、今、あれとは違う楽しさを
感じている。

身体が喜んでいるんだ。

でも、あの時は・・・

ここが、上手く、さっきから言えない。

でも、私の身体はね、

きっと、

すごく、

「必死」だったんだって、

私は、今、そのことが、
この今日の記事で、一番、書きたいんだよね。

身体は、いつか、私が感情というメトロノームを取り戻す日を
一度も疑わなかったんだって。

40年以上、私は、この身体をないがしろにしてきてしまったんだけれど、
身体は、決して、私を見捨てたことがなかった。

これは、この頃、ずっと思っていることなんだけれど、
私は、実際そうなんだけれど、
歌のT先生もそう、前に会っている人なんだ。
私がこの頃思っているのは、私は、

「今までのものは、私は、捨てない」

ということなんだ。

この身体が、その最たるものだ。

身体能力、これを今まで培ってきたのは、
感情でなく、言葉だったろう。

毒に育てさせてしまった身体なんだ。

だけれど、私は、
この身体を、今ある身体能力を、
「反転」させてみせよう、と思っている。

殺したりは、絶対、しないって。

これと類似することとしては、
子どもとの関係もそう。
私は子どもと接するのが得意だ。

それをさせた、訓練させたのは、
毒だったといえば、毒だった。

でも、だから、ダメだ、とは、
私はしない。

D先生が言われる言葉に耳を傾けたい。

「打身力はある。ただ、音楽力がついてきていない」

これを、私は、信じているし、実感している。

言い換えると、こうだ。

「今まで培ってきたものは、全部、使え。一つも捨てたりするな。
ただ、主人が変わり、コーチが変わった。毒親からあなた自身に
主人がなり、コーチが感情になった。新ソフトは、言葉でなく感情。
そして、あなたは、今、一番自分が好きなことを知ったから、
他者、自分でない他に対して、心を開くことができるようになった、
だから、あなたをメトロノームと接し、その体験を楽しんでいる。
それを音楽に限定すれば、音楽を楽しむとは、その体験をしていくことなんだよ」

そう、先生は言われているように
私には思う。

私が今まで使っていた毒された「言葉」というツールは、
「他人を奪うため」に、あらゆる方法で使うことを
毒親によって訓練された。

でも、今、私は、
他人を奪ったりする必要がない。

私が私自身を一番大好きだからだ。

それは、あなた、他者にとっても同じこと、
あなたにとって、あなたはあなたが一番好きなんだ。

そんなの、当たり前のことなんだ。

今までの記憶が、
時々、こう、書いていても、
「一人よがり」なんじゃないかな、と頭によぎることがあるのだけれど、
それは、ざるから、すり抜けていけばいい。

私は、今、やっと、
他人に依存しながら生きていること、
これを、ただただ、・・・、ありがとう、って言いたいなって。

昨日、こんなことを思いました。

この話をして、今日の投稿は閉じようと思います。

踊りの動画を見てね、みんな6年、8年、もっと長く
地道に続けていてね、だから、人生がその人らしく開けていっているんだなあって
うらやましく思ったんだよね。同時に、うらやましい、というのは
「自分にはできないかな」とか「自分にもできるとか思っていた自分を見たくない」とか
そんな気持ちが生まれてしまうのを、感じたんだよね。

でも、そう、そう、これは
昨日じゃないんだけれど、
私も50歳になれば、踊りも音楽も7年とかやることになるわけだから、
これからだ、っていうふうにも思った。

で、話は昨夜に戻しまして、

でも、思ったのは、自我復元は、たった3年といえば3年かもしれないけど、
このブログもそう、やってきたことなんだよね。3年間。

そう思った時、会ったことはないけれど、
たくさんの自我復元者の方のこと、存在が、バァーと
広がっていくように感じたんだよね。

何十どころか、100人、200人、とかかな、
わからないけれど、今、諦めてしまった人もその中にいてもね、
それでも、私は、一人が欠けても、
私の自我復元はありえなかったんじゃないか、と思ったんだ。

自我復元は、その最中も、
また、終わりの方も、どこをとっても
生きるか死ぬか、というきわどい闘いであることは事実だけれど、
私は、自我復元に関して、こういう持論がある。

自我復元を始めた、ということ。

これが、実は、最も、
ハードルが高かったことだ、ということです。

もちろん、私も含め、
多くの方が、始めた時なんて、なんとなくこれなら、と
それこそAC人格が錯覚して始めただけだ、って
思う方も多いかもしれません。

でも、自我復元をやり通して、私は思っています。

自我復元を始めた、

このことは、決して、誰でも出来たことじゃない、と。
それは、自我復元に出会えたこと自体も
確率的に天文学的に低いかもしれないけれど、
そんなことよりも、

「私が、あなたが、始めたこと」

これが、どんなに奇跡的か、というほどに、
私には、このハードルの高さを感じています。

今はまだ後天性全自我は、3人、ということになっているけれど、
これまで、自我復元を始めた人は、今、諦めていた人もいても、
私は、終わっていない、と思っている。

始められたら、続ければいい。

ただ、始まらないものは、続けられもしない。

当たり前だけれど、

たいていは、「始まれない」。

でも、始めた人がたくさんいる。

続けるのは決して簡単ではないが、
不可能ではない。でも、始まらなければ、あなたは出会わなかったことになる。

私は、そうやって「始めた人」たちがいて、
一緒にやってきたんだ、と、すごく思うんだ。
仲間なんだって。一緒に、この荒野を戦った戦友なんだって。
昨日、夜、そのことを思った。

だから、一人事、じゃないんだよ。

このことを最後に書いて、
今日の投稿を閉じたいと思います。

また、書くからね!


◆自我復元に関する資料◆

無明庵サイト「桜の間」
http://mumyouan.com/k/sakuranoma.html


2016.09.19
愛美(あび)

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by jh-no-no | 2016-09-19 23:07 | 愛美通信☆メトロノート


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