意志を行使する者-自我復元後日記[088]

生と死を超えて、なお、それでも闘い、
生き切る存在って何か、といえば、
「意志を行使する者」だ、と思った。

以前、口中香というのは、
反逆の生き方だ、と私が感じたことを書いたことがあるが、
同じことで、さっき、リズムをとりながら、いろいろなことを感じた。

拍を打ってみる様子などは、
あとで動画を撮って掲載したいと思うが、
その前に、書いてみたいと思う。

今回から、愛美通信☆メトロノートを綴っていきたいと思うが、
(前の投稿は、序章として)、まず、私が今日感じたことは、その
「メトロノームを培う」というのは、何も、今から新しく始めることではない、
ということ。

これは、私自身が今日、気づいたことなのだけれど、
私は、自我復元を始めたその時から、正確な言い方をすれば、
「自我復元をやろう」と決めて、結果、続けた、その最初に決めた時から、
メトロノームは動き続けてきた、ということ。

前回の投稿でも、このへんは、なかなか上手く言いにくいところではあったけれど、
メトロノーム、というのは、自分の、だとか、他人の、だとか、
そういうはっきりとした区別では考えにくいし、決めつけるようなものでもない。

たとえば、自我復元は、私だけの力でやり続けられてきたか、といえば、
Noだ。自我復元の医師である崩残さんがいたからであり、また、
共に掘り続けてきた自我復元者たちがいたからであり、
また、私に切羽詰まった状況が3年間、絶えず、訪れたからであり、
これらが、止まることを許さないメトロノームとして、
そう、もう一つ、この自我復元ブログもそう、これらが決して止まらないメトロノーム
だったからこそ、私はそれに必死にしがみつき、掘り続け、ゾンビ状態に苦しみながらも、
AC人格と闘い抜くことができた。

しかし、これらのメトロノームから目をそらすこともできる。

それこそ、自由にやめることができる。

やめるのがいい悪いの問題ではなく、
ここにこそ、意志の行使、というのがあった。

身近な音楽の例でいえば
「メトロノームを使ってごらん」というアドバイスを無視することもできるし、
やってみる、そう選択することもできる。
それは、いい悪いの問題ではなく、私の意志次第なのだ。

話を戻すと、今回から本格的にスタートしたこのメトロノートも、
新しい試みであると同時に、このブログを書き始めた最初から
実は、ずっと、続いているものである、ということ。

ですので、ぜひ、これまで読んできてくださった読者の方、
300近くの記事を読んでくださった皆さん、それは膨大な量、
皆さんのお時間をいただいての私の自我復元だったわけですが、
ぜひ、これからも、愛美という他人の話、ではなく、
この愛美通信のコンセプト通り、感じ合いながら、
自我復元の先を切り開いていきたい、と思っています。

というのも、これは使命感でも何でもなく、
全自我になってからが、また、すごく大変だからです。
ただ、これは「待ちに待った、やったるで大変さ」です。
言い換えると、麻痺しない神経が、全身全霊で、世界の事実に向き合う楽しみです。

勢いでまず書くのはこのあたりにしまして、
今日、拍とりの自主練でやってみたこと、
今から、動画を撮ってきますね。

音楽の話が中心になりますが、
音楽に興味のない方も、日常生活や仕事の場面で
何か役にたつ部分があるかもしれませんので、
よかったら、ご覧ください。

動画をとる前からあまり多く話したくはないのですが、
日常生活、仕事、すべて、そこには、「運動」があります。
身体運動は、わずかでも、そこにあります。
私の仕事なんて、畳一畳に7時間近く拘束されているようなものですが、
それは、取り組みようによっては、踊りの舞台であり、
7時間、お金をいただいて人前で踊れるわけですから、
それは、もっとその踊りを楽しむ工夫をしていきたいわけですね。

それは誰にでも、そういう日常はありますから、
ぜひ、何か工夫のヒントにしてみてください。

では、撮ってきますね~


・・・ ・・・ ・・・


また8分程度の動画ですが、
「ワカメ、コンブ、タコ!」をご覧いただき、
ブログを読んでいただけたらと思います。





もうちょっと、1分くらい撮影していたのですが、
いつの間にか、切れてました。。。

撮りたい部分は撮れたので、よし、としまして、
そこで、今朝、これだけのリズム運動ですが、
感じたことを、書きたい、と思います。

真鍮の棒はわりと重くて、
スナップがきくので、運動の様子を体感しやすかったという点で
面白かったです。

その前には、手で普通に床に叩いてやっていたのですが、
真鍮を使うことで、太鼓を叩くイメージが持てます。
まさに打身の「打」のイメージです。

まず、感じたことは、
頭に鳴っていた(意識していた)メトロノームとはいえ、
それがあるだけで、楽しいなあ、と思ったことでした。

では、無いと楽しくないのか?という話ですが、
好き勝手にリズムに乗って、動画のようにスナップもきかせてやれば
「楽しい、といえば楽しい」のですが・・・

ふと、やっていて、この違いに気づきました。

飽きる、という現象について、です。

楽しい、気持ち、これは「快」の感覚ですけれども、
これは、この感覚とやらに舵を任せると、
感覚というのは、褪せていくし、時間が経てば、
またやる気がでたり、と、不安定なものです。

ですので、「あっ、楽しい!」と思っても、
次には、こういう思考が生じてきます。

「なんでこんなことして(続けて)いるんだろう・・・」

ああ、これが、「飽きる」ということなんだなあ、と思いました。

それでやめるわけです。

そこでやめずに、「続けるのがいいんだ、続けるべきだ」とやっても、
飽きてしまっている、のが本音ですから、続けてはいるけれど、
つまらない、というのが本心です。

ところが・・・です。

メトロノームを使う、それを「止めない」でやり続けると、
「飽きない」のです。

理由は明白でした。

メトロノームを止めないのは、誰か?というと、
私だからです。この快の感覚を続けてみたい、快をもっと追及したい、
その思いが、メトロノームを止めません。

自分で、やっているわけです。

ところが、快の感覚それ自体に舵を丸投げしてしまう、
というのは、自分が舵をとることを放棄してしまうことで、
感覚が褪せればつまらなくなる。

ところが、その快の感覚にインパクトがあると、
「あの快はいいんだ、正しいんだ」としがみつきたくなり、
褪せてもなお、いいからやるんだ、と思いこみます。
もう、そこにリアリティーがないのに、妄信するわけです。

これが、くだらない格言となり、
本心は飽きているわけですから、次の刺激、次の格言へと
落ち着かずに渡り歩く、そうして、格言野郎になる、というわけ。

メトロノームを使う、というのは、
快を続けていこう、とする意志に他なりません。

口中香もそうでしたが、
快を続けていこう、とする意志が、
それをさせます。

これを「束縛」や「面倒」と感じることは
とてもおかしなことです。
というのは、誰も、やれ、とは命令していないわけです。
ただし、それを命令してきたのが、毒親だったから、
その、誰もやれと言っているわけでもないのに、
やらねば、とか思っていまい、束縛だ、面倒だ、となってきました。

メトロノームは、

自分が止めたい時に止めればいい、

それだけなのです。

「飽きたからやめる」

というのは、快の感覚に自分の舵を丸投げするから
そういうことになる。

自分の意志を行使する、というのは、
自分がやりたいときに、メトロノームのスイッチをつけ、
自分がやめようと思ったときに、メトロノームのスイッチを消す、
ただ、それだけです。

メトロノームに依存しながらも、
メトロノームとの出会いと別れは、
私個人が、そのタイミングを決めることです。

ここに、素敵な形での「集中」が生まれるのだと思います。

集中する、熱中する、私はそれが好きです。

しかし、ずっと私は、
「そんなのは」という思いが影をさし、
歌もそうですが、あの時期のあの環境でなくても、
私は、続けることはできなかったと思います。

歌の楽しさは、完全に、感覚に私は依存していました。

だから、一時期、その歌にそれこそ「ハマっても」
飽きたらつまらなくなる。

そうやって、私は何を失ったか?ということを今日考えたら、
快の感覚それ自体を、くだらないものにしてしまう、
信頼に足りない、どうせそんなものは・・・というものにしてしまったことです。

快を追求できない、というのは
その意味で、私は、病気の証拠だと思いました。

楽しい感覚は、楽しさが保証してくれるのではなく、
私が楽しさを求めるから、楽しさ、気持ちよさは、続いていける。
そこに、自動性というのは、一切、ありません。
完全に手動的であることが、唯一、快の追求の精神を腐らせないものだと感じました。

それは、

熱中したり、集中したり、夢中になったり・・・
そう、子どもはいつもそうであるように、
その好奇心の芽をつぶさないために、子どもが育み続けるのが、
「工夫をしよう」という精神だと思います。

私はそういうふうにして、生きる人が大好きです。

私は、仕事中も、自分がぼぅっとしてしまっている時、
はきはきと受け答えをする人に出会うと、はっと目が覚めます。
何をぼけっとしてしまっているんだろう、自分は!と。

こう思います。

「飽きる」からどうのこうの、というくらいなら、
生命体験など、選ばなければいい、と。

いや、本当はそれが、この宇宙の生命体験の標準かもしれません。

だけれど、私たちって、生命である以前に、意志あるものでしょ、って
私は思いました。

それが、文頭にも書きましたし、
以前にもブログでそのことに触れましたが、
生き死にを超えて、なおも、私たちが生き切るのは、なぜか?
という自問に答えるものだと思います。

飽きる、というのが、自然の摂理なら、
それに反逆し、楽しみ続けよう、という精神を死守しないのなら、
生命体験は、家畜同然です。

自身が意志を行使する者であるのなら、
そして生命体験を選ぶのなら、飽くなき快の追求のために
工夫に工夫をこらす・・・それこそ、子どもの時に持っている精神だと思いますが、
その精神を持ち続けたいと思いました。

さて、まったく話は変わりますが、
最近になって、この人好きだなあ、という踊り手さんがいますので、
その動画をリンクしたいと思います。

個人的なことですが、ブログにも何度か出てきた
「主任」に似ています・・・メイクも。

でも、何より似ているのが、
まじめなところです。一生懸命なところ、その姿が大好きです。

実は、今日、このブログを書きながら、
これをアップしようか、迷っていました。

馬鹿じゃないの、と思われる、というよりも、
私自身が、一時的な好きな感情に左右されている、と
決めつけていたためです。

でも、そんなことが、ダメなんです。

一時的な感情に左右されているんだ、なんて
簡単に認めちゃダメなんです。

誰に馬鹿にされようが、自分が好きだ、と思ったら
簡単に手放してはいけない。
手放すのなら、真剣に、これでもか、と好きを貫いて、
分かれると決めればいい。

没頭できない、というのも、病気です。

私は昨日思ったことがあります。

昨日、というか、今日ですが、
前回の投稿を自分で「よく書いたな」と思いました。

自我復元ブログを書く、というのは
とても勇気がいることです。
ゾンビである自分をさらけ出す、自我復元中は
私にとってそういうものでした。

しかし、さらけ出しているのは、
同時に、勇敢な姿です。私の中で息づいている己です。

今でも、同じです。
ゾンビ、とは違いますが、
全自我になっても、壁はつねにあります。

その意味では、前回の投稿を書くのは、
正直、それまで以上に、ハードルが高かった。

なんといっても、何もよりかかるもの、
これがいいのか悪いのか、どう判断していいのか、
何の根拠もなかった。ただ、事実として、
私は今、こう思った、思ったりしている、
それしかなく、それしかないで文章を書く、
こういう通信を書きます、と告知することは、
崖から飛び降りるようなものでした。

次にリンクさせていただく動画もそうです。

正直、今の今まで、私は揺れていました。

揺れるのはいいんですが、リンクするのはやめよう、って。
でも、なぜ、やめるのって?

馬鹿にされるから?

一時の気の迷いだから?

馬鹿にされても、気の迷いでも、

ねえ・・・それが、生命体験でしょーが!

って、「しがみつく」くらいの根性を持てよ。

私はもっと、しがみつきたい。

世の中にはたくさんのメトロノームがある。

工夫のしようは無数にある。

私はこれを決してくだらない、とは言わない。

これから出会う子どもたちにも、
あなたのやっていることはくだらない、とは
口がさけても、言わず、思いたくない、
そう思います。

それでは、今、私が好きな人、踊り手さんを
ご紹介しますね!






◆自我復元に関する資料◆

無明庵サイト「桜の間」
http://mumyouan.com/k/sakuranoma.html


2016.09.17
愛美(あび)

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by jh-no-no | 2016-09-17 15:53 | 愛美通信☆メトロノート


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