人気ブログランキング | 話題のタグを見る

(後半)変わりゆく内と外-自我復元後日記[009]

・・・「(前半)変わりゆく内と外-自我復元後日記[008]」の続きです。

実は、家に帰ってきて、ブレーキをかけることもなく
PCをつけようとしたのだけれど、スピードはそのままブレーキに触れず
ちょっと寄り道をしよう、と、10分、別のことを
部屋の電気を消して、今さっきだが、やってみた。

しばらく前の記事だったと記憶しているが、桜の間の記事で、
たしか、こんなことが書かれていたのを、
仕事の帰り道、思い出したからだ。

死後、電話だけがひとつ置かれた部屋に
自分が、ぽつり、といたとして、
さて、どうするだろうか自分は?という
シミュレーションだ。

これを私は考えてみたくなった。

その際のメモをとらなかったので、
あらためて思い出しながらだが、
そこで考えたりしたシミュレーションを
少し、書いてみよう。

かつての私であれば、
当然、どうしたらいいのかわからない不安から
「あのー、どうしていいのかよくわからないので
ちょっと電話してみたんですけど」と、
おそらく、何も考えず、電話をして、
ホテルのフロントの人から何かを訊こうとするに違いない。

しかし、今の私はどうだろうか?

まず、私は、電話があるな、とは思うけれど
おもむろに受話器を取りにいくことはないだろう。

こうまず思うはずだ。

「ここはどこだろうか・・・」と。

そして考え始めるかもしれない。

どうしようかな、とか、
何しよう、と。

もちろんその中には、
別に、まあ、ちょっとこのままにしておいて、
休んでいればいいか、ということも思うことの一つかもしれない。

よくわかんないなあ、この状況は、とは思うだろうけど、
たとえば、もしも、ちょっと眠かったりしたら、
少しだけ寝よう、と思うかもしれないし、
今のこの今の私なら、中心の技法でもやってみよう、
15分後にアラームでもかけて、とするかもしれない。
そして、実際、よくなってしまうのだけれど、
寝入ってしまうこともあり、その死後のホテルの一室でも、
中心のワークをやりながら、寝入ってしまっても、まあ、いいかな、
少し休もう、と思うかもしれない。

ただ、まず電話をしよう、はないな、と。

なぜだろう?ということなのだが、
その理由は、こういうことをシミュレーションした時に
ああ、だから私は、とりあえず電話、というのはしなさそうだ、
ということを、自分自身、納得した。

たとえば、そうやってそこにあるベッドに横たわって、
まあ、休んでいよう、としていた所に、
急に、ドアが開いて、誰かが入ってきたとする。

ここで、もしもかつての私なら、
ちょうどよかった、あのー、これ、どういうことなんでしょう?
と「お伺い」をして当然、な姿勢で、その誰か(以下、案内人と表記)と
向き合ったと思う。

しかし、今の私は、もしもそんな事態があったら、
(ちょっといきなりなんなんですか的な、少し怒りや不信感とともに)
「なんでしょう?どなたですかあ?」と訊ねると思う。

この違いは何か、というと、
実は、私は、この何でもないようなホテルの一室でさえ、
私がそこにいて、そこで何かを感じ、そこでまわりを見たりしている限り、
その部屋、というのは、

「自分の部屋だ」

という認識がある、ということなのだ。
今の私の場合、は。

これは何も所有感覚として、自分の部屋といっているのでなく、
自分が体験している世界像(現実)として、当然、この今のこの部屋というのは、
ドカッと入ってきた案内人が入りこんでくる「前」は
私一人が知覚していた空間であり、私の経験それ自体だったわけだから、
「誰あんた?」となって当然だと思うのだ。

あのー、と何も疑問に思わず訊ねてしまうのは、
その感覚、この部屋が自分の部屋である、という感覚、
つまりは、私自身が経験していることが、私個人の経験として
確固たる自立性を持っている、という感覚が希薄だからだ、としか思えないのだ。

というふうに、先ほど思った時に、
今、私が安易に受話器をとらない理由もわかった。

電話をかける、というのは、
こちらから受話器をとる、という行為のためにわかりにくいのだが、
受話器を通じて、かけた以上、
そこから相手が侵入してくることを意味する。
なにより、私自身が、「どうぞ」と鍵を開けたことを意味する。

開けたければ開ければいいのだが、
問題なのは、そこに、「相手をこちらに自分が入れていることなんだ」
という自覚がないことにある。

自分も相手もなく、ただ、不安だからとかで、
あのー、とやってしまう。
もうこの段階で、「自分」などあるわけがない。
境界もなにもあったものじゃない。

もしも正常な意識なら、
ドカッと、でなく、そっと入ってきたやつだとしても、
「なんでしょうか?あなたは、どなたですか?」と
いぶかしげに訊くのは、当然だと思う。
だって、急に、私の世界に入ってきたのだから。

いぶかしげ、というと、相手を悪くはなから思っているようかもしれないが、
実際、警戒するのも当たり前だ。自分を守る上で、それは必要最低限、
あって当然な注意力だと思う。

その上で、それから私はどうするだろう、と考えてみた。

情報を知ろうとするかもしれない、と思った。
その案内人の話をきいたりしながら、
まずここはどこで、あなたは誰で、何をしにきた人で・・・と。

そこで、もしも案内人が、仮に、

「今あなたはここからすぐ出て、行ってほしいところがあります。
あなたに会いたい、と言っている人がいて、あなたを必要としています。
必要なら、その方の映像でもお見せしましょうか。これなんですが・・・」

とまくしたてるようにきたとしたら、

「おいおい、ちょっと待てよ」だ。

だって、まだ何も「同意」をしていないのだから、
話を勝手に進めなさんな、と思うのが当然だろう、と思った。

なぜ、ここを出ろ(出てください)と言われて、
私は出なければならないのか?それはどうしてか?
まったく、こんないい加減な説明では、まあとりあえずってわけにはいかないだろう。
とりあえず出ていったら、それは、もうとりあえずではない。言いなりだ。

ここには、本来、同意が成立するに至るに必要な
まともなやりとりがあるべきなのだ。
そういうことなら、こういうことには同意するとかしないとか、
ここに、まともな会話が起こらなければならない。

電話があるから受話器をとって、まずは指示をあおぐ、
などという稚拙さは、一言、「言いなり」以外になんでもない。
毒親の言いなりになった、その言いなり、怠惰さ、と何も変わらない。
(数日前に思ったことだが、どうしたらいいのか?という一見、悩みのようなものは、
それに答えてもらったり答えを見つけさえすれば、後は自動的で、考えなくてもいい、
という怠惰な精神から口にするダダコネのことなのだ)

このあたりまでシミュレーションしたところで
アラームがなったので、PCの電源を入れることにしたのだが、
少しずつ、職場に戻ってから考えていたことや、
こうしたシミュレーションというのが、つながってきた。

やはり、これは、
自我の壁の故障だ、と思った。

毒親は突然に侵入してきたかもしれない。
そして、死をちらつかせたに違いないだろう。

しかし、不用意に、というか、
「ぼぅーとして」といったらよいか、あるいは、
自分という意識の希薄さ(これ自体が希釈自我そのものにも思えるのだ)、
自分という意識に対して尊厳の欠片もない怠惰さ、というか、
こういったことは、まぐれもなく、

「私自身」

がしたことであって、それで侵入されて、
威嚇されて、恐怖を植え付けられたとしたら、
当然親も悪いけれど、はなからそういうスタンスで自分を扱っていた自分にも
十分落度があるのではないか。

希釈自我だったから、という理由はあるかもしれないが、
今は理由探しをしているのではない。
何が起こったか、を知ることをやっているのだ。

少し前のブログにも書いたように思うが、
私は、生前記憶を探るとき、Pに限らず、
いつも誰かがいる、誰かと関わる、そういう中に
私はいたビジョンが多い。

それに今まで疑問を持つことはなく、
持ったとしても、利他的な(もちろんエセの利他だが)精神を
毎回引きずっていることを感じていたくらいだったが、
さっき、これを思い出した時に、
これは、やはり、ダメだ、と思った。

この誰かがいつもいるビジョンというのは、
その誰かがどこにいるか、がポイントだが、
自分のテリトリーである我が家、自我内にいるのだった。

個の私、対、別の他者、という
それぞれが独立した中で関わるような世界像ではなく、
私の場合の「誰かがいる」「誰かのために」「誰かとともに」
というのは、全部、その誰かに

「侵入」

された上での、我が家の「のっとられ状態」が
誰かがいつもいるビジョンだったのだ。

それは、何も生前記憶でなくても、
Pとのリアルな生活が、そうだったように。

そして、このブログの最初にも書いたけれど、
いざ、ここ(我が家)から出て行ってほしい、とまでも言っておらず、
ただ、「ここは、我が家だから」と言っただけで(まあ、同じことか・・・)
Pは、態度を変えた。みんなそうだった。毒母も毒父も、P母も、全員。
それほどに、あいつらは、私の家の中(我が家)を
我が物顔で当然だろって感じで居座っていたし、
しかし、私は、その中で

「楽しい思い出」

も作ってきたのだ。

それは、楽しかった、でいい。
楽しくなかったんだ本当は、というふうに言うことはない。
楽しいと思っていたのだから、それはそれでいい。

しかし、私が自我復元で気づいた事実というのは、
それは、侵略による搾取が、たいへんに手がこんだやり方でなされ、
洗脳され、調教され、自己の尊厳など、まったく無視した中でなされた、という
そのおぞましい事実であり、「生きてすらいなかった私」の発見だったのだ。

その私は、一度も、楽しいと思ったことはなかった。

生きてすらいなかったのだから、そんなの当然だ。
楽しいはずがない。

このブログに最初に書いたこと、
ずっと私は変わっていない、という意味はそういうことだ。

生きてすらいなかったその「私(主体)」が
ようやく生きられるようになってきた、その私(主体)は、
書いているととても当たり前すぎるが、同じ、その私(主体)だったのであり、
私が生きてすらいない状態ならニコニコし、
私がいざ生きようとすると態度を豹変したPほか毒親たちこそ、
変わっていったのだ。

書き換えたのは、
その意味でいえば、私でなく、まわりなのだ。
それでいい。だって、まわりがしたことなのだから、
まわりに書き換えさせればいいのだ。
(言うまでもないが、AC人格はれっきとしたまわりである)
私という主体が、何かを配慮してやる必要は、一切、ない。
どこへでも、どこにいても、私は堂々としていればよい。

話を少し戻していくが、
私は、おそらく、希釈自我ということが起こる前から、
そもそもの精神が、希釈自我的だったというか、
誰かになんとかしてもらおう、という精神だったのではないだろうか、
というのが、今の私の見解だ。
このことは、別の角度からではあったが、生前記憶を探っていた時期にも
「私の性質」として、そもそも、誰かに自分を預けてしまう姿勢があることを
掘っていった記憶がある。

こういうことは、現実社会の本当にさりげないシーンでも出てしまうものだ。
たとえば、雪国旅行の時に、私は、もしかしたら、WMさんと一緒に仕事することに
なったりして・・・とか思ったり、そういうことの中に、
すでに「侵入を許してしまっている精神」がどーんと横たわっているのだ。

一人に閉じる、ということは、
一人ですでに満ちている、ということであり、
満ちる、とは、何か素晴らしい状態とか、素敵なものがつまっているとか、
そういう意味ではぜんぜんなく、ただ息をし、動いている、その
赤ちゃんがやる基本的なしぐさの中に、自分の意志の行使が存分にある、あった、
という事実のことを言っている。

なぜ、誰かを必要としよう?

ぜんぜん、いらない。

死んでしまいますよ、そんなこと言ったら、
などというやつがいたら、言い返せばいい。

「だから何。死ぬかもね、たしかに。だから何?」って。

個という一人にいる、ある。
これがあってこその、死であり、生である。
死も生も、その後に起こることであって、
死も生もそんなのなくても、個の尊厳はあるだろうよ。

だから戻り続けるのだ。

原点に。

原点は中心であり、それは、
空っぽの自我という、球体の部屋でもある。

しかし、空っぽの中で行使する意志というのは、
未来永劫、不変な価値を持つ。
それは、私が死後に、見せつけてやりたいズボンのボタンと同じ。
それ以上に、何か上等なものになる必要もなければ、
「そんなのは」とか他人にとやかくケチをつけられるものでもなく、
ゆえに、成長とか、何かになるとか、そういう幻想はことごとく幻想であり、
赤ちゃんの息やもぞもぞ動くだけのそのしぐさは、
何百歳の大人になって、そのままでよかったのであり、
だから未来は何も変わることもなく、変わる必要もなく、
今ここで起きていることが、過去も未来も、それがすべてなのだ。

ただ、そう思えないとしたら、
自分の意志で、手を動かしていない、と思っているからだ。

自分の意志で手を動かしている自覚があるのなら、
未来もずっとそうしていることなど、当然のこととして了解することだ。
だから、過去も未来もなく、現在の連続のように感じもする。
幻想を、妄想をとっぱらえば、そこにいるのは、
そういうことをおっぱじめる前の、「赤ちゃん」の自分を見るだけだ。

で、一番私が私に向けて、今日、書かねばならず
またここまで書いてきたのは、その「赤ちゃん」を生きるのか、
それとも、妄想世界をまた生きるのか、どっちにするのか腹をくくったのかよ、あび!
ということを、私は、ブレつつも、突きつけ続けていきたいからだ。

でも、迷っているわけじゃない。

答えは明白なのだ。

まだ傷つく前の赤ちゃんを生きるに決まっているのだ。

そこからの生というのは、決して、
「今までの生をやり直す」というような少し道の角度を変えて済む生き方ではない。

この前も書いたように、
それは、もう、これまでの40年以上の、さらにいえば、
前世やその前の生そういった今までの生とは、

「まったく、接点がない」

大展開した新しい生を歩くということなのだ。

それは、すごいことをやってやる、とかそんな
妄想世界の延長線上の理想なんかとは全然違う。

そんなんではなく、まったく


「新しい」


ということだ。

そして、それは「新しい」ことをやろう、とかでもなく、
新しいことしかできようもない、赤ちゃんの可能性そのものだから、
新しくないことを、仮に、やろうとしても、できないのが、その地点なのだ。

だから、今までの恐怖すら、
わからない、感じない、知らない、という地点になってしまう。

それは、何度か書いたが、
傷つく前の、私だ。
自分を裏切る前の私だ。
受話器をとる前の私だ。
一人、部屋の中にいて、息をし、手を動かしている私だ。

問題は、

私の意志で、すべては行使している、という認識を
決して誤魔化さないか、ということになる。

それが出来る、出来ていたのが、
生まれた時ばかりの、まだ傷つく前の、
赤ちゃんの私だったのだ。

ただ、今回の生で、自我復元をしてきたということは、
次は、まともな赤ちゃんとして生まれたい、という本気のことだ。
自我をしっかり持った、己を決して裏切ることのない赤ちゃんに。

そして今できないことはその時できない、
そんなことは明々白々なのだから、
死後、の話ではそもそもが、ない。

今、私は、赤ちゃんとして生まれて、
生きて、それが私の生なのだ。

それが今起きていること、否、
今、私がやっていることなのだ。


2016.2.25
あび

●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
by jh-no-no | 2016-02-25 06:12 | 私の生き方


<< 私は私が笑うのが私らしい-自我... (前半)変わりゆく内と外-自我... >>