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笑顔から始まる

Rさんと衝突し、Sさんにも思いをぶちまけた。

それから、一昨日、

Rさんに対して、こんな気持ちを向けはじめていることに気づいた。

「信じたかった」

意外な気持ちだった。

この気持ちこそが、AC人格の動機だったから、
私は、これを天敵のように避けてきたのものだったからだ。

そして、昨日、

私は、生まれてはじめて、
心のなかで、弱音をはいた。

「つらかった」

と。

仲間外れにされている、そう思い続けてきた
ここ7ヵ月以上の日々、それは思っていたことであり、
なのに、言えなかった言葉だった。

なぜなら、つらい、と認めたら、
Rさんに認めてもらいたいというAC人格を
私が認めてしまうことになるからだ。

そうやって掘り続けてきた。

でも、なぜだろう。

「信じていられたら・・・よかったのに」

そう思っていることを、素直に思い、
でも、結局、Rさんを信じられなかったこと、
信じたくて、信じようとして、でも、その都度、裏切られて、
私は仲間外れにされ、いじめられて・・・

悲しかった?寂しかった?のか・・・

きっとそうだろう、と思った。

私は、「哀」という感情こそ、
他のどんな感情と比較しても、
それはまるで氷の塊の芯のように、
真っ白になって死に絶えたかのように、
そもそも、私は、悲しいということを感じたことがなかった。

自我復元を始めるまで、
楽しいも嬉しいも、怒鳴ることも夢中になることも、
そして怖いという感情すら、私は知らなかった。
私は自分自身、本当に「自分には感情がない」と思っていた。

恐怖という感情の氷から、少しずつ、本当にそれは少しずつ
気が長くなるような時間をかけて解け始め、
毒親やPに怒りを向けられるようになり、
AC人格との格闘を経て、楽しい、嬉しい、夢中になること、
それらの氷が、ちょっとずつちょっとずつ、解け始めていった。

でも、悲しい、というのが
まったくわからなかった。寂しいもわからない。

今まで、私は、他の方の報告文やブログを拝読し、
まったくわからない箇所が共通してあった。

それは、

「親にこうこうされて、悲しかった、寂しかった」

という部分が、まったく理解できなかった。

私は、親に何かをされて悲しかったり
寂しかったりした記憶が、一つもなかったからだ。

そんなことをここ2日考えていた。

昨日、私は、思い切ってRさんに、
「仲間外れにされた気持ちがして、私は悲しかったんです」
と直接言ってみようと思った。それに間違いはないと思ったから。

それで休憩室で、もう一度、自分の気持ちを見てみよう、とした。

というのも、一つ、どうもやはり、しっくりこなかったからだ。

「カナシイ」
「サビシイ」

これにリアリティーがどうしてもついてこないからだった。
きっとそうなのだろうけど、これを言った時に、
私は本当に「言ってよかった」と思うだろうか、と考えると、
どうだろう?となった。それでもここは動くべきだ、と思ったり、
いや、しかし・・・と思ったり、揺れていた。

正直、信じたかった、と思っただろうことも、
仲間外れにされたくない、と思っただろうことも、
考えれば考えるほど、「本当にそう思っているのか?」と思い始め、
しかし、こうやって、行動を阻止しようとするものに対し、
私は警戒を強め、それでもやってみよう、いや、しかし・・・を
繰り返していたのだ。

実際、Rさんと話したら私はどう言うだろう?

シミュレーションはしてこなかったが、
一度、独り言でやってみることにした。
悲しい、寂しい、そう言えるだろうか、と。

その時、私は、独り言であれ、
はじめて、私は、この言葉を口にしたのだ。

「つらかったなあって」

仲間外れにされた気がして、つらかったなあって。
私はRさんにこう(独り言で)言った。

この時だった。

「もう大丈夫だ」

と思ったのは。ああ、どちらでも大丈夫なんだと。

どちらでも、とは、
Rさんに話してもよし、話さなくてもよし、
(結果的には、その日、話すことはしなかった)
私は今、リアルな気持ちの氷が解け始めたことを知り、
そのことこそ、いや、それだけが、ここ2日間の迷い、妄想の中で、
一点のリアルだったのだ。

仲間外れにされ、
Rさんを信じたくても信じられず、
いじめられていると思っていて、
悲しく、寂しかった・・・のだろうが、
そういうことよりも、私がずっと言えなかったこと、
ずっと思っていたのに言ってこなかったことが、

「つらかった」

という、まさに、その気持ちだった。

つらかった、が言えなかった。

この2日の間に、そういえば、と思い出したことがあった。
これと似たことがあったことを。
それは、「初めて泣いた日」というタイトルで書いた時の
あのPとの出来事、私は、一緒にあなたとやりたかったのに、
いつも出来なくて、それがどんなにしんどかったか・・・と言った時、
思いがけず、泣いてしまった時のことだ。

その泣いてしまった当時は、ただそれが起こっただけで
どういうことかはわからなかった。
ただ、こうやって泣いたことで、やっと泣けた、と思った。
そしてこれがPに対して、私の気持ちをつきつけたもの、
ずっと言えなかったことをついに表明したことだったから、
それは、ピリオドだと思った。まさに、ピリオドの涙だった。

たしかに、私はその時も、Pに
「どんなにしんどかったか、あなたにわかりますか」と
しんどかったことを訴えてはいた。

でも、ここがとても微妙かつ巨大な格差なのだが、
私はこの時、まだ、「しんどい(つらい)」ことを
認めていなかったのだ。しんどかった、つらかった、という思いを
自分が感じてきたものとして、「認めてはいなかった」。

むしろ、認めるどころか、認められないからこそ、
Pに訴え、その自分と離れる、その自分を葬るために、
思い切って、つけねばならないけじめとして、Pに話をしたのだから。

今は思う。

それは頭でそう思っていた計画のようなものに過ぎない。

私があの時泣いたのは、
本当は、「つらかった」という思いが、涙を押し上げたのだ。
ずっと言えなかったこれが、涙となってこぼれだしたのだ。
今はそう思う。あの時は、そうは思わなかった。
そんなことより、あの時は、かつてのそういう自分と別れるために
必死にとらねばならない行動であった。
AC人格を解除するために、やらねばならないことだったから。

でも、なぜだろう。

自分でもわからない。

AC人格に自分を売らない決意ができたからだろうか。
理由は自分ではよくわからない。

一昨日、「信じたかった」と弱音を心のなかで吐いたこと、
それは、弱音、と書いたが、なんというか、入っていた力がぬけて、
ありのままに、そう感じた思いが、ぽろっと出た感じだった。
強音、という言葉はないと思うが、たとえば、私が先ほどのPの時のことで、
「初めて泣いた」と言葉した時のそれは、弱音ではなく「強音」だ。

そして、昨日、最弱音、と言ってもいいかもしれないが
「つらかった」という言葉を、私は、はじめて口にした。

これはACとの格闘がつらかった、という意味のつらかったでは
当然ない。そうではなく、仲間外れにされ、そういう毎日が、
私は、つらかった、という、おそらく、ごく普通の意味で
つらかった、という意味なのだろう、これが。

私には、このごく普通であろう「つらい」を
40年以上、一度も言わなかったのだ。
誰かに言う以前に、私の中ですら、言ったことがなかった。
思いつきもしなかった。
Pに対してもそうなのだ。ああやって涙を流すまで、
20年以上の間、私は、自分がつらかったことを自白したことがなかった。
しつこいようだが、我慢しているつもりがなかったので、自白という自覚すらないし、
感情を押し殺しているとさえ、思っていなかったのだ。

それでじゃあ、どういう行動に切り替えていたか、というと、
上から目線で相手を軽蔑し、利他的なことをやっている特別な自分を演じ、
内心はいつもイライラし、しかし、そういう自分を保身し、酔い、
でもいつもイライラし、攻撃的で、でも、いつも笑っていた。笑いを作っていた。
あらゆる感情などなく、それも自覚しながらも、これでいいんだと確認を繰り返し、
違和感はずっとずっと溜まり続け、イライラと作り笑顔の人生だけだった。

感情のかわりに、私は、論理武装した。
「私はこう思っている。こう考えている」を主張した。
まるで主体性がある人間かのように。私自身、自分は他の人よりも自分の考えを持つ
主体的で自立的な人間であると、ずっと思って生きてきた。
どんな上司に対しても、文句を言ってきた。
「あなたの言っていることは、これこれこうでおかしい」と非難してきた。
私は、怖いものなんてないと思っていた。どこに出ても、誰に対しても何でも言えた。
こう育ててくれた親を感謝すらしていた。親以上に、私は自立的な人間になったのだと。

その意味で、今回、SさんやRさんと衝突したことで出た私の挙動は
これらのACのやり口をくまなくやってしまっているものだったから
私は、ああ、これでは完全にACだし、コミュニケーション障害と言われて当然だ、
と自分でも思っていた。けれど、「何か」だけは違っていたのだ。
それが、前回の投稿の内容である。

昨日、私ははじめて「つらかった」と思えた時、
つまり、「つらかった気持ち」をはじめて自分の思いとして認められた時、
ガチガチの氷の芯が、解け始めた。

カナシイ、サビシイ・・・

それはまずどうでもよかった。
これをそう呼ぼうか呼ぶまいか、そのこだわりからは離れていった。
相当囚われていたから、簡単ではなかったけれど。でも、離れていった。

休憩時間も終わりになり、トイレに行き、
鏡を見ると、私は自分の「微笑んでいる」その顔を見て思った。
「こんな顔、今まで見たことない」と。
唇は赤々としていて、肌につやがあり、目に力が抜けて
まるで子どものような顔だった。こんなふうに、私は笑ったことがなかった。
そして、「よし!」と口にして、職場に戻ったのだ。

ピリオドの涙は、今、

「笑顔から始まった」

のだ。

つらかった、が言えた所から、
スタートした。また、私の人生がここから、笑顔からスタートした。

話は戻るが、Rさんに対して「信じたかった」と感じた時、
いったいこれは何だろう、とその日ずっと考えていた。

毒親のことを考えた。

悲しい、寂しい、という思いの記憶はない。
あるのかもしれないが、今は、思い出せない。
しかし、明確なことは、私は、親に対して、
「信じられない」とは決して言えなかった。
言うことが許されているものでは、決して、なかった。

親を悪く言えなかった。親に「あなたのせいだ」となども
ずっと言えなかったことだった。
言いたい局面があったわけではないが、言えないことはわかる。

そこには、「親は絶対だ。逆らってはいけない」という毒父の
恐怖の植え付けがある。

もしも「信じたかった」とでも頭によぎったとしたら、
それは親を「信じていない」と思っていることとイコールだから、
私は、おそらく、「信じたいのに、信じられない。信じたかった」とは
絶対に言えなかったろうし、思うことも自分で禁じていたろう。

親は当然のように、信じる対象だった。

でも、きっと私は、信じられなかったのだと思うのだ。
確かな確証はないけれど、逆に、私は彼らを
「本当に」信じていた実感がない。
親は尊敬すべきものだ、というものがあっただけだ。
そして、それを裏付けするものが、AC人格の保身のために
用意され、あてがわれ、自分でもさらに強化してしまったものでできている。

親の親のことを考えると、
とくに父は、「親を信じない」とは考えてはならなかったろうし、
つまり、私とまったく同じAC人格を生きてきただろう。
母は、となると、どちらかといえば、Pが私を利用したように、
そういう父を保身のため、あるいは、便利なように利用しようとした、
といったほうがいいように思う。その意味では、洗脳の主犯はやはり毒父だ。

これが連鎖し、感染し、また強制され、調教され、
洗脳され続けたのは確かだろう。

「信じられなかった」

はずなのだ。父も自分の親に対して。

では、私は?

私は、父を信じられなかったと思っているのだろうか?
私はずっと親を尊敬していると思って生きてきた。
当然信じている、と思っていた。
世界の誰よりも、私は、親を信じていた。
それが誤認であれ、私はそう思ってしまっていたのは確かなのだ。

しかし、これについて思ったことがある。

「信じるしかなかった」

のではないか、と。

「信じたかった」という気持ちの背景には、
恐怖があったのではないか、と。

たとえ、何か悲しかったり、寂しかったりしても、
そう感じることは、親を信じていない証であり、
親を信じていない、と自分が認めることは、命にかかわる問題だったのではないか、と。

つまり、推測するに、

「恐怖」が
「悲しみ」や「寂しさ」を見えなくさせてきたのではないか?

それは、父が子どもの頃、自分の親に対して、そう思うのを隠した感情だ。
そう、今、思ったのだが、自分のことでなく、毒父に対してはわかるのだ。
掘ってきた通り、彼が親に対して思っていたのに抑圧してきた感情のメインが、
悲しいや寂しいという感情であることを。

ん?

しかし、どうだろう??

あの父は、もしかしたら、私と同じように、
自分の親に対して、見捨てられてしまうこと、自分に関心が向けられていないことを
悲しいとか寂しいという自覚があるだろうか・・・そう今考えてみると、
はなはだ疑問だ。なにより、彼は、「自分に関心を向けられていない」ことそれ自体すら
今もなお絶対に受け入れられていないはずだからだ。
ならば、そこにあるのは、無自覚に植え付けられている見捨てられる恐怖しかない。
この無自覚な強迫観念だけで、生きている、といっていい。私がそうであったように。

わからないが、ここがどうも震源ではないか、と思う。

悲しい、や、寂しい、が
わからないようにさせられたのだ、きっと。
なぜなら、毒親も、またその毒親も、
「親は絶対であり、信じる対象であること」を
たとえ子どもがそう思えない時があっても
ねじ伏せる必要が、親都合として、あったからだ。

本当に私が感じていたのは、
きっと、信じたいのに信じられないと思わせる
悲しさや寂しさだったのではないだろうか。

たとえば、私は、毒父の存在とは
逆らったら殺されるようなものだった。
もちろんこのことに気づいたのも自我復元をしてからであり、
もしも自我復元をしなければ、それすらわからず、
「尊敬できる、いいパパだった」で終わったはずだった。

しかし、実際は、彼に対して、逆らったら殺される恐怖が
実際にあることがわかった。
そのなかで唯一逆らえたのが母だったから、
反抗期の時は、反抗の先が母に向けられただけで、
言い換えれば、父に向けられなかった分、母にいくことで
そこをさらに誤魔化していた、というのが事実だろう。
父には言えなかったのだ。

私がショックだったのは、
母は私に関心を向けてくれなかったことだ。
中学の頃、私は、学校に出かける直前、母と口論になると、
玄関で遅刻してしまうそうになるに焦りながら、
私は、必死だった。これはつい最近わかったことだが、
「なんで僕のことに関心を向けてくれないのか」が主訴だった。
この癖がいまだにあって、私は時間に追われ、ギリギリになると
相手や物事に対して、とりつかれたかのように、だだをこねるようになる。
なんとか、押し通そうとしてしまうのだ。それをやらかすのが、時間に追われた時だ。
でも、結果、母との時がそうであったように、自分が折れるしかない、と
思っているところがあり、やけになっているだけだったりするのだ。

私は、母との反抗期を経て、
もう誰も私のことを理解してくれることはない、と思い、
もう親にわかってもらおうとは思うことはなくなり、
そうやっていくうちに、自分はついに特別な存在となり、
自立的で主体的な人間だと思うための論理武装に明け暮れた。

話はずれてしまったが、
あと一つ思うのは、
私は、ずっと「一人だった」という気持ちがあることだ。

これはかなり前にも掘ってきた感覚だけれど、
私は、誰からも関心を持たれなくて当然だと思っているところがある。
誰からの関心も期待していない。
もっといえば、私は、どうせ誰からも関心を向けられない人間だ、
と思っているのだ。

これは、悲しいことじゃないんだろうか?

なぜ、私はこれを普通に思えるのだろうか?

悲しかったこと、あったんじゃないだろうか?

でも、気づいた頃は、大人の気持ちをおしはかるような
大人子供のようになっている自分しか見つからない・・・


とにかく、この2日間、私が感じてきたことを
書いてみることにした。


なんか、煮え切らない。

なのだが、私はここで止まらない。

少し前に、私はもっと「やんちゃ」に生きていこう、と
思った。汚い言葉ももっと使っていいし、憎まれていいし、と。

でも、その前に、

私は、

「つらい」と感じて生きてみたいのだ。

なぜなら、それは、確実に

「笑顔」から始まる人生になるからだ。

煮え切らないのなら、煮え切らないままでいい。

煮え切りたいのではないからだ。


そうは思っているけれど、
迷宮のなかに今私はいる。


今やるべきだ、と自分で思っているのは、

やはり、やはりだ、

「つらかった」

という思いを認めたのだから、

もう、

つらいという気持ちを抱えておく必要ななく、
ありのままに、感じればいい。
つらいとは、実は、そう思って我慢することで、
ACが生きてきたというのが、実は、起きてきたことなのだ。

つらいと思っていて、でもそんなことないと否定することで
私のACは生きながらえてきた。

その「つらい」を受け入れた今、
もう、方向を変えていいのだ。

一点を見ればいいのだ。

つらかった

そう、

だから、

もう、

笑いなさい。

笑いたい。

もう、私は笑いたい。

いや、でもダメだ。

何が、毒親との生活のなかで、
私はつらかったのだろうか?
つらかった記憶がない。

なんでだ??

これは思い出せないものなのか?
麻痺しているのか?
それとも、本当につらかったことはないのか?

・・・いや、違う。これらを分析することが今やることじゃない。

感情を開放していくことが、私が、今やるべきことだ。

今、覚悟が決まった。

私は、やる。感情を開く。

だって、もう、

つらい、って

言ったじゃないか。

笑ったじゃないか。

だから、

もう、

出たんだ。

洗脳の迷宮から、出たんだ。

悲しい、寂しい、を見たくなかった父がやったことは、
私にその感情を最初から打ち砕くことだったのだ。

親に逆らったら殺す、という恐怖を植え付けることで、
親を信じないという選択肢を許さず、
私に、悲しい、寂しい、と感じることを許さなかった。
親に対して、関心を自分に向けてくれない悲しさや寂しさを子どもが
抱く、ということは、親を信じていないことだから、
私は自分に関心を向けてくれなくても、そこに不満を持つこと自体、
許されないことだったのだ。

そこに、深く恐怖を植え付けたのだ。

なぜなら、

これこそ、毒父にとって、ババ(毒祖母)に見捨てられたことを
認めてしまう、という死活問題だったからだ。

その保身のためのAC人生が、父の人生だったのだ。

だから、今、私は、

悲しいや寂しいがわからなくていい。

これから知ればいいのだ。

この感情は、未来にあるのだ。

つらい、と認めた昨日のあの休憩室のあの時から、
時計の針は動き始めたのだ。

やっと悲しめるんだ。

やっと寂しがれるんだ。

きっと、その喜びが、鏡の中の私の笑顔だったに違いない。

時計の針は動き始めた。

過去への逆流が、また、反転した。

その流れに乗ろう。

その調子に乗っていこう。

そう、笑うのが目的ではないのだ。

笑い始めから、時計の針が進むその人生を
私がこれから生きていくこと、
禁じられた感情を手にしていくこと、

「これから」

なのだ。


2016.1.15
あび

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by jh-no-no | 2016-01-15 07:42 | 私の生き方


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