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④今日書き切りたい決意

「③今日書き切りたい決意」の続きです。


・・・


恐怖の目的は、
恐怖に私が屈することであり、
ただそれだけだ。

逆にいえば、私は「屈しさえしなければ」
恐怖は目的を達成しえない。

ところが、私はいつも違うことをしてしまう。

恐怖の目に遭わないためには、どうするか、
という仮想の恐怖による妄想をしてしまう。
そしてそれは、「従うこと」でしか解決できない。

しかし、それは解決ではなく、
「恐怖に屈した」ということだ。

もしも恐怖に屈しないままに
居続けたのなら、それは地獄そのものに「いる」と感じ続ける。

そして、長時間さらされ、ふと、思うのだ。

そこにこそ、制限されずに生きればよい選択がある、と。
自由に書いてよい日記がある。
そういう場に「いる」ただの私がいる。

「楽しい」、と、その時、笑みが浮かぶ。
地獄の中、ただ中なのに。

自分ルール、いつも仕事中やる自分ルールは
まるで価値のない行為に思える。
しかしそこには違和感がないのだ。

今日、職場の前の広場で、休憩時間、考えようとしていた。
夕刻、珍しく、さわやかな風があって、穏やかだった。
考え事もいいけれど、わずかな木立を眺め、夜空を眺め、
そうしているだけで、気持ちがよかった。

それは、リフレッシュしているとかではない。
私が今まで息抜きだ、リフレッシュだとしてどんなにしたところで
どこも息抜きなどになっておらず、緊張状態にある。

そうではなく、気持ちがいいとは、
そこにただ違和感がないという、ただそういうことなのだ。
そしてそういう自分ルールや、木立を眺めることを
私は日々どんなに無価値で、それは最低というほどの無価値さを
そこに与えてしまっているのか。そしてごくごくわずかな、壊れたレコードのように
繰り返される妄想が、いかに価値があるか、それだけを確かめようとしている。

しかも、それは自分の頭では確かめられない。
誰に、何に従えばいいかが、「これでいいんだろうか、こうすべきだろうか」
という埋め込まれた自問、否、他問によって、その価値は唯一はかれる。

それが、「顔色をうかがう」ということなのだ。
顔色などうかがわずにいたり、そうやって木立を見たり、そのへんのなんでもない
物体を意識的に見ることを、私は、いつもないがしろにし、無価値で、
まるでそんなことをしている自分が拷問にかけられているかのように感じる。

これが拷問だとすれば、いつ終わるのだろう・・・と問いかけ、嘘をつかなければ
「終わらない」と返ってくる。自分以外の主(あるじ)に服従しない限り、
これが拷問だとすれば、終わることは、決して、ない。拷問だとすれば、だ。

いつも同じ恐怖と妄想に投げ込まれ、
40年以上、それこそ終わらなかったのは、いったいどっちだった?
支配され続けた私の生とは、どっちが本当の側面だったのか?
苦しかったのか、楽しかったのか。
その苦しみから逃げたくて、苦しみから避けたくて、そうやって
AC人格の生を、幸せだったと思いたくて、思いもうとするだけの生を送ってきたんじゃないのか。

思いこむことをせず、
今、直面し、起こっている事実は何か、
それを見ること。

恐怖を避けたいとすれば、
顔色をうかがい従うしかない。

従おう、とあらかじめしようとするのは、
恐怖を避けるためなのだ。

恐怖は避けるものじゃない。

いかなる事実からも、私は逃げない。

だって、その地点こそが、
AC人格に甘んじるか、それとも、
自分の日記のペンをとるかという瞬間だから。

自分の人生について妄想するのでなく
「逃げ道」を見てみれば、
そこでいつも恐怖に屈し、歪んだ顔して戻っていった「しけた」人生が
ことごとく、毒親の人生だったのだから。

これが今日の決意だ。


2015.08.17
Aby


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by jh-no-no | 2015-08-17 13:45 | 復元ノート 1


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