人気ブログランキング | 話題のタグを見る

④命がけの自我復元

「③命がけの自我復元」の続きです。


・・・


仕事のこと、Pのこと、言葉のこと、自我復元のこと、
これらについて、今、思うこと、この6月を振り返って思うところを書いた。

では、これから、どうするか。
これらにどう手を打っていくか、生活改善をしていくか、それが問題だと思う。

まず、Pのことで、先日思ったことがある。

私は、Pとのこの関係をどうしたらいいのか、と
戸惑っていて、見ないように目をそむけてきたところがある。

しかし、一つ覚悟が決まったのは、
私は、この関係を、「見届けよう」と思った。

見届けるとは、最後まで、それはその行く末をどんなに残酷でも
見届けようということ。これは、自我復元を完結するためにも、必要だと思った。
けじめ、といってもいいかもしれない。なんとなく別れるとか、なんとなく別れない、とかでなく、
そうではなく、自我復元が必然的に至る結末を、ちゃんと見据え、見届けること、
どのような事象も見逃さないで、その終わりまで見ることが必要だと感じた。

なぜなら、それが「事実」だから。

おそらく、それ以外に、私自身が納得できないと思うから。

あと、今回もブログを書き進めていく中で、
どうしても「言葉」に引きずりこもうとする力があって、
「自分で」という言葉に、「しがみつこう」としている自分がいる。

まず、しがみつこう、としている自分、
言葉にしがみとうとしている時に、そういう自分を生のまま、
宙ずりにしてみようと思う。
これは、その渦中にいると、相当勇気がいるのだけれど、
ただ、最近、それは、不可能ではない、と感じるようになりつつある。
関心地図の効果かもしれないけれど、関心地図は私にとって
心地よい体験をさせてくれる。

それは同時にどういうことか、というと、
心地よくない体験が、「これは心地よくない」とわかりやすくなった、ということでもある。
言葉への執着の気持ち悪さは、以前からあったものではあるが、
どの程度、その気持ち悪さに直視できていたか、というと疑問がある。
これをもっと直視したい。

これもそうだけれど、「私」というものが、「直視したくないこと」など
何もないと思えるとき、清々とする。どれも、すべて体験したい、という時ともいえる。
正直、AC人格の挙動すら、見届けたい、と思える時がある。
それすらも、「私」にとっては、「体験」に思えるから。

今回、書いていて思うのは、
いろいろ書いたけれど、これらを頭で、それはつまり言葉でくくろうとすると、
どうも、わからなくなってゆき、「何にもわからない」ようにすら思えてくる。
今まではこれが不快で、耐えられないものだったのだけれど、
それについても、はたして、そんなに不快なものか?とも感じ始めている。

自我復元について。

そう、これも今月思ったことだが、
私はずっと、「変わらない」と思っていた。
私は、自分が変わった、と思わなければ、次回の判定依頼もしない、と決めていた。

では、その「変わらない」というものが、何なのか、を見てみると、
様々な分析の「気づき」といった言葉も含め、そういった「自分以外の何か」、
いわゆる「他者」が、「私を変えてくれる」と思いこんでいるようだ。
何かが、私を変えてくれる、と。

「なんで変わらないのだろう」

という疑問自体、おかしいのだ。誰に、何に、変えてもらおうと思っているのか?
この問いの最も不可解なのは、「どう変わりたいのか?」に答えられないことなのだ。
それも当然だと思った。なぜなら、このなんだかモヤモヤしている自分を、誰かや何かが
きっと「変えてくれる」と、ただ、そう思っているだけだからだ。
自我復元もまた、まるでカルトのように、「自我復元が変えてくれる」と思ったりもする始末。

変えてくれる、誰かが私のために、なんとかしてくれる。

この考え方こそ、抹殺しなければならないだろう。

それは、表裏の関係で、先ほども書いたが、
「お前のためにオレはやってやっているんだ」という歪んだ利他精神を殺すことでもある。
だから、「お前もオレのためにやるのは当然だ」と思っているわけだから。

お前のために、の、この「お前」とは誰か?

元をたどれば、父の母親、「ババ」なのだ。
私にとっては、Pという存在だ。

Pに対してもよく抱いた感情だ。
どうして、お前の幸せを考えてやっているのに、
お前は私の幸せを考えないんだ?考えてくれないんだよ、というものがある。
こうやって最後に、子どものようにだだをこねるのは、
私であり、父なのだ。

父がよく言っていた格言。

「自分の幸せは、自分が決める」

もっとも、彼が実行してこなかった言葉だ。

私もまた、他人とは、つねに、「してあがるか、してもらうか」の関係しか知らず、
今に至っている。

でも、これは、変えていける、と思っている。

たとえば、今回のレントゲンのことでもそうだけれど、
自分の意志というのは、他人を動かす力があるのだ。
それは何もエラそうな意味でなく(エラそうだ、と思うこと自体が病気だ)、
自分の意志が他者を動かす、他者に影響を及ぼすのは、至極、当然のことなのだ。
それは、なにも自分の都合のよい方向に相手が動いてくれる、という意味でも
もちろん、ない。

今回のレントゲンの件がよい例だった。

その医師は、最後まで、胸部のレントゲンの医療被曝は(被爆という言葉も避けてその人は
使わなかったが)、最も低いものだ、とか、自然からの放射線はもっとあるだとか、
健康とのリスクとを比較すればどっちが賢明か、とか、必死に私を説得しようとしていた。

言うまでもなく、これが科学的姿勢とは到底言えない。
真逆であり、こういう安全神話の洗脳が、現在の日本に至っているわけであり、
その意味では、この医師は、はなから、放射能を気にするなんて・・・と、
実際、「神経質だ」とも言ってきた。

でも、私が知りたかったことは、数値だった。
公開できないものなのか、教えていただけるものなのか。
その一点だった。その数値は「低いので気にしなくていい」と連発されていたが、
なら、教えてほしい、気にしなくていいくらいの数値なら、そうだと見て、
私自身が、安心することもできるからだ(と、実際、そう伝えた)。

さらに、僕がどうしてもその一方的な押し付けに対して言いたかったのは、
安全かどうかは、自分でその数値を管理して、それで判断したい、ということだったし、
それをしなかったら、ただ、お医者さんの言われるままにそうだと鵜呑みにしているだけで
人間とは私は思えない、と真剣に話すと、そのあたりから、相手が「動きはじめた」。
ならば、数値をレントゲン技師にきいて、詳しい数値、間接撮影、直接撮影の違いも含めて調べ、
折り返し、電話します、という流れになった。

先ほども書いたけれど、「受け入れてくださってありがとう」は
間違いなのだ。ただ、この会話で、双方に影響を及ぼしあった、ということであり、
これは、私が、自分の意志なくして、そうはならなかったことなのだ。

やってくれてありがとう、とか、
やってあげるから感謝しろ、というのは、
ぜんぜん世間では当たり前ではないのに、そうとしか見ることができないできた。
でも、今回思ったのは、これは不健全なコミュニケーションであり、
健全なコミュニケーションでは、自分の力で、その場を切り開き、その場を形成していくことじゃないか。

一方、だからこそ、怖いと思うようにもなった。
それはいい意味で怖い、と思うようになった。
それは、自分次第で、結果が変わるからだ。
当たり前のようで、私はこれも、初体験だった。
この電話だけでなく、会社で、自分の意志を伝える機会があり、
その時も、その伝えることで、現実という世界は、違うものに変わっていった。

相変わらず、S先輩とは不愉快な関係を続けているが、
私は、これに対して、無視してやれ、とか、まあ、いい対応をしているとは思わないが、
それでも、私は、この関係を、今は、大事にしている。
私はこの不愉快な関係になったことに、責任を持ちたいと思っているから、
そういう目で見ていると、私はこの不愉快な職場の雰囲気すら、どこか楽しい。
(決して楽しくはないのだけれど・・・)

そういう不愉快な中でも、関係というのは変わっていくのだ。
Sさんも私を気にしているのがわかる。
それは、今もなお、もちろん自分のAC人格からきた部分は反省はしているが、
ひいていない部分もあり、それはそれで、何一つ妥協していない。
そういう態度や言動は、やはり、相手に影響を及ぼすのだ。

正直、私は、ろくな対人関係を作れているとは思わないし、
ずっとやってきてこなかったから、たぶん、私のほうが、客観的に見たら問題だ、
と思われる部分は多いとは思う。それでも、それでも私は、今、
では、どこに問題があるのか、この現実の対人関係の中で、実際に体験し、
多少いじめられてもいいから、その中で知りたいのだ。

仕事については、これはやっとPの城の「外」の現実に
触れる機会、それは、本当の現実でAC人格が出てくるのと格闘するのに
よい場だと思っている。悠長なことは言っていられないが、AC人格を殺す場面は
買ってでも出る必要があると、今、思っている。

現実の場で、現実に殺すことが大事だと思っている。
社会で通用しなければ、当然ながら、死後も通用しないのは当然だ。
Sさんも不愉快だけれど、もっと毒が強いのが、女性先輩のRさんだ。
彼女は、絶対に、その人の陰口を、「その人がいないところで」しか言わない。
そして、よくあるやつだけれど、その他人同士を敵対させる。
「あの人がそうだから、あなたに迷惑かけることになってしまっているのを
ワタシ、わかっているわよ」と、耳打ちし、全員を敵対させておきながら、
自分だけは安全なところにいようとする、最低なタイプ。そういうやり方でしか、
自分の安全を確認したりできず、心配でしかたがないのだと思う。

しかし、私は、こういう人と接すると、なんとしてでも、この人の思い通りにさせてなるものか、
と自動反応してしまうのだ。20代の頃のバイトでもそうだった。
この投稿の最初のほうに書いたけれど、なんとか、気苦労でもいいからさせてやりたい、
私はぜんぜん平気で、楽しく仕事しています、と演じようとしてしまう。
でも、これは、相手の思うつぼでもあって、こういう人は今までもある時点で
うってかわって、「Abyさんが頼り」と言いながら、利用してくるのだ。
そうすると、こっちは「利用されまい」とまたやっきになる。

これはまだこれから実地で経験し、刺激されるACを殺していく必要があると思っているが、
ただ、それに対して思うのは、当然、妄想をたくましくして対応することではない、
と思っている。わからないが、ここでもまた、「自分の意志」を表明していくしかない。
今までの経験から、こういう人に対して私がやってこなかったのは、完全に自分の
感情を閉ざしてきた、そして、「平然」を装ってきた、ということだ。
そして、本当は感じてもいないことを、その人に話してしまうのだ。

こんな感じだから、本当に、嫌な職場だな、と以前なら思ったろうし、
やめていたかもしれない。でも、今は、やめたいとなど思わない。
ここで掘っていくぞ、と思う。せっかく、ACが顔を出してきているのだから。
殺すチャンスである。


以上、少し長くなりましたが、6月最後のブログです。
内容に追加などあったら、また追記したいと思っています。



2015.06.30
Aby


●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
by jh-no-no | 2015-06-30 06:26 | 復元ノート 1


<< (前半)今日のこと ③命がけの自我復元 >>