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(続き)ミスに対する意識

前回の投稿の続き、を書きたい。
(前回の投稿、かなり走り書きだったので、誤字や抜けている部分、
少しですが、修正、補足をしました。)


前回の投稿を書き終えてから、仕事に向かう途中、こんなことを思った。

たとえば、

「よっし。じゃあ、働いて石油ファンヒーター、新しいの買おうよ!」

とか、

「コンセントが断線しかかっているだけだから、
自分たちで直せるか、調べてみない?」

とか、あるいは、

「ふざけんなー!こんなくらいで壊れるなよおーー!!」

と、声を出して、怒ったり、笑い飛ばしたり、・・・

どうして、Pとはこういう会話が生まれないのだろうか、と。

もちろん、私自身、そう思えなかった、というのはある。

でも、だ。

ふと思ったのだけれど、もしも、Pが、そんな感じに言ったりする人だったら、
私はどんなに、自分のミスに対して、ほっとしただろうか。

こんなことが昔あった。

車を運転していて、私は前の車に追突してしまったことがあった。

そのとき、父の妹が、私に

「大変だったでしょ?」と、心配してくれた。

私は、この時ほど、ほっとしたことはなかった。
他人から、親も含め、こんなことを言ってもらえたことは
一度もなかった。ただただ、「うん、大変だった」と、父の妹からの言葉に
救われた思いだった。

私が覚えている限り、今まで、これ一回限りだと思う。
他人から、これほど、ほっとさせられた記憶というのは。

もちろん、父の妹は、本当に心配して言っていたかどうかは
わからない。気さくな人だったから、そういう言葉が電話口でさらっと
言えたのかもしれない。それでも、この一言に救われたのは確かだった。

P、父、母、Pの母もそうだ、
みんなに共通するのは、こういった失敗に対して、

「ああぁ・・・そぅ・・・」

と力なく、暗い顔をし、何も言わない。

そして、あからさまに責めることも言わない。

私は、今まで、親から自分の失敗を「責められた」という記憶がない。
そのうえ、あの毒父は、「失敗するのが人間だ」とか、「失敗して人間は成長するんだ」
とか、「完璧な人間なんかいない」とか、格言ばかり連発していたから、
私自身、この親は、まったく他人の失敗を責めたりはしない、とても寛容な人だ、
と思っていた。

父の最悪なところは、
言っていることと、伝わってくるものが、
まったく「合っていない」ことなのだ。
ところが、そこにも私はずっと気づかなくて、ただただ、
寛容で、理想的な両親だ、と、40年思い続けてきたのだ。

ならば、

どうして、私は、失敗に対してこれほどに過敏で、
また、父の妹からの一言、この一言だけが、今まで救いの一言だと
感じたりしているのか。まったく失敗に対して、私は「おおらか」ではいられない。

実際、こうやって頭でわかってきても、
やはり、断線してしまって、相当接触が悪い状態のファンヒーターのことが
気にかかっている。あれから、やはり、ずっと気になっているのは確かだ。

どうしてもお金に結びつけやすいようで、
その流れの妄想が起こってしまっている。

ただ、これもやはりおかしい、と思うのは、
単純にお金の問題ではないことなのだ。というのも、
たとえば、これがもしも、私がつまづいて故障したのではなく、
使用の劣化によって故障した、とか、私ではない者がつまづいた、となると、
「しかたないか」と思える。買えばいいよ、と。同じ出費となったとしても。

ということは、やはり、私のミスだ、ということが
ひっかかっているのだ。

もしも、「自分」とは無関係なところで起こった事故ならば、
本当は、そう、本当はそれでも、「なんだよ、もう。痛い出費させんなよ」くらい
思ってもいいのに、まるで真逆なことに、「買えばいいよ」となってしまうのだ。

今までPに対しても、そうだった。

お金、好きなように使えばいいよ、と。

これって、まったく父と母の関係なのだ。

前にも書いたけれど、父はいつも「ボクは、ざるそばでいい。
もりそばだと、のりがつくけど、パパはざるそばで十分」と勝ち誇ったように
よく言っていた。

今思えば、そんな能書きいいから、ざるそばを黙って注文すればいいものを
毎回、ボクはもりそばじゃなくていいんだ、と付け加えて話すのは
考えてみれば、変なことだ。

さらに父は、子どもたちには、

「好きなものを何でも注文していい」と言った。

たしかに、私は我慢した、という記憶はない。

でも、はた、と今日思ったのは、じゃあ、父の言う意味で、
何でも好きなものを注文するぞーーー!とワクワクするテンションで
毎回いたかといえば、そんなこともまた、記憶には一度もない。

ただ、

金遣いの荒い母が、そう、「母だけが」好きなものを注文していた、
ということを、思い出した。

もちろん、私もメニューから好きなものは注文した。

上手く言えないが、でも、これは、父の言う意味での、よっし注文しちゃうぞ!
という楽しみとか、母のように、「遠慮なく」注文する姿勢とは、違うのだ。

つまり、

子どもだった私は、別に、なんてことも思わず、
いつも注文し、普通に、なんてことなく、食べていた、ということだ。

と同時に、じゃあ、そもそも、本当になんでも好き放題注文できていたか、
といえば、そんなの、ありえないんじゃないか?

父が、たったのプラス30円をけちっているのを毎回きかされ、
そしてさらに、そういった貯金の積み重ねが、私の出産費用になっただとか、
そんな話ばかりきかされた子どもが、おおらかにお金が使えるものだろうか?

子どもだから、「お金」の感覚はあまり私にはなかった。
何が高いのか安いのか、それもわからなかったところはある。
ただ、母は、贅沢な人だったのはたしかだから、当然、子どもである私たちも
母の注文したものを食べるし、母が注文する出前のメニューと同じメニューの中から選ぶ、
それは当然のことだ。ここから好きなのを選びなさい、と言われるわけだから。

で、何が、薄々わかってきたか、というと、

この父の、「好きにどうぞ。ボクはいいから」という自己犠牲精神で
誰が得をしたか、といえば、

母だけ

だったのではないか、ということだ。

私たち子どもにとっては、ただここから選べ、と言われて選んでいただけだし、
それは日常的なことで、普通なこと。

だがしかし、

私に今残ったのは、父が、本当に伝えたこと、
伝えようとした本当のことが残ったのだ。

「自分は我慢する」

というやつだ。

父が我慢をすることで、その分、得をしたのは、母だ。

そして、父は子どもに本当の思惑「自分は我慢する」という
自己犠牲の精神を植えつけることで、何をしたかったか?

わからないが、それで守られるのも、やはり、
「母のわがまま」なのだ。

だって、父の分身みたいなものなのだから。
母にとっては、都合がいいよね。

ふと思い出したけれど、以前、私たち子どもは母の分身だった、
ということに気づいたことがあったのを、ブログにも書いたことがあった。
たしか、父の顔色をうかがう母の、その分身としての子ども、ということだったと思う。

だとすれば、これもまた、私たち子どもは母の分身なのだから、
父にとっては、都合がいい。

これでは、まるで、子どもは、そう前にも書いたが、
この二人を結びつけておくための接着剤、まるで、道具だ。

そこで、今、私とPとの関係を見てみれば、
明らかに私が今まで「守ってきたもの」は、
Pのわがまま、なのだ。

もしも、だが、私たちに子どもがいたら、
私は、Pに都合のいい子どもに教育しただろう。
Pを守ってあげなさい、と。これは火を見るより明らかだ。

もう一度、ファンヒーターの話に戻るが、
なぜ、お金への妄想に発展しやすいのか?

そう、さっき仕事をしているときにふと思ったことがある。

それは、

「こういうことにお金を使わなかったら、何に使うというのだろうか」

ということだった。

私は、そのお金があれば、お米が何キロ買える、だとか、
こんな食べ物も買える、だとか、そんなことまで考え出してしまいそうになる。

もちろん、食べるものを買う、それは大事なことだ。

だけれど、それだけ?だろうか。

でもそれって、食べていくことは、当たり前のことなんじゃないだろうか?

どうも、この、お金=食べ物=死活問題、のようなところがあって、
それは当然なのかもしれないけど・・・いや、当然じゃない気がする。

そこで思うのだ。

なぜ、よっし、お金をためて石油ファンヒーター買おう!

とならないのか。

故障したらなおす。

なんでもそうだと思うけれど、そうやって、どの国の人もみんな
生活をしている。決して楽な生活じゃなくても、そうやって生きるために
お金をかせぎ、仕事をしている。

思ったのは、それは、決して、みじめなことじゃない、ということ。

今まで私は、たとえば、何か事故があって、
家などを失って、大変なことになったりして、それのために
働くようなことは、不幸なことだ、という漠然としたものがあった。

ところが、今、そうは思えないのだ。

そのような中にあっても、元に戻そう、とか、
家を修理しよう、とか、汗水たらして働き、それが、

「楽しい」

と苦しくとも思うのなら、それは決して、不幸なことじゃない、と。

これは、私は、

〝堂々と〟

生きている姿に見えるのだ。

なんというか、正しくお金を稼ぎ、お金を使っていると感じる。

だから思ったのだと思う。

「また一生懸命働いて、買おう!」

と言い合えるパートナーで、なぜ、Pはないのか、と。

暗い顔をして、「ああ・・・」と心配そうに黙りこむ。
車の事故のときも、正確には覚えていないが、たしか父も母も
「ぶつけちゃったんだ・・・」と、なんとも、私が悪いことをしたかのような、
そんな態度で、私に接した。

たしかに、悪いこと、だったかもしれない。

だからって、「あーあ」みたいに、なぜ責めるのだろうか。
決して言葉ではそうは言わないけれど、顔がそう伝えているのだ。

そんなんだったら、

「ぶつけちゃったの!大変だこりゃ」と、はっきり言ってくれたほうが
よほど、すっきりする。今回のファンヒーターの故障も、「わー、痛い出費!
超ショック」と言ってくれるパートナーだったら、どれだけ、解放されたか。

要は、結果として、彼らが私にやったことというのは、
私の失敗に対して、自責の傷の上塗りでしかないのだ。
まったく話し相手にもなってくれず、私一人が抱えこむことにいつもなる。
一緒に考えてくれたこともない。Pも、私の両親も。

だんまりを決めこむこと。

これは、残酷なやり方だ。

人はそういうなかで、「自分が悪いのでは」と思うようになるのではないか?
これは怒りをそぐやり方でもあるんじゃないだろうか。
自分が悪いかもしれない、と思いこんだら、感情らしい感情は生まれるだろうか?

だいたい、

石油ファンヒーターのことだけれど、

ただ、壊れた、壊れそうなだけじゃないか。

もう昨日になるけれど、稽古で、このような人のように生きたい、
と思える72歳のおじいちゃんがいる。昨日、あらためてそう思った。

そのおじいちゃんは、まったく、正直だ。

私はいつも思う。

コソコソ生きたくないんだ、って。

自分の人生を、自分の頭と身体を使って毎日を生きていく。
そのおじいちゃんは、自分の好きなように生きている。
でもそれは、すごく当たり前の姿に見える。
自分が自分のために生きるのは当然であり、それだけで
そもそも、めいっぱいに生きることになるのが、そのおじいちゃんを見ていてわかる。

そのおじいちゃんは、

「私は、寝る前に、一日の反省をするんですよ」

とさらっと話されたとき、明確に、それは、そのおじいちゃん自身、
自分自身のために、ということが、しっかり伝わってきた。

一日の反省は、より、充実した人生を味わうために、
そのおじいちゃんは、しよう、と思ってしていることなんだ。

私にはそう思えた。


2015.03.16
Aby


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by jh-no-no | 2015-03-16 06:37 | 復元ノート 1


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