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「無視」という社会訓練

約2年、自我復元のための自己分析をしてきて、
その間、今にいたるまで、致命的だと思うことがわからなかった。

毒親に、わたしはいったい、何をされたのか、
それがわからなかった。

今日、それが薄っすら、見えてきた。

それは、

無視、というものだ。

これは、ひょんなことからわかった。

現在、Pがわたしに「何をしているのか」を見れば、
それは、明らかに、無視というものだった。

また、ここ数日、内職で出会った人たちと
メールでやりとりすることがあったが、結局のところ、
わたしへの無関心、無視、それが「あたかも当然の事」として
はなから決まっていたのだ、と気づいた。

このパターンは、すべてに渡っていた。

父も母も妹も弟も、Pも、Pの父も母も妹も、そしてわたしが出会い、
わたしのまわりにいた人たちの共通しているパターンは、
完全なる「わたしという存在」への無視だった。

それは、「頼られる」という形で誤魔化された。
そしてわたしは、彼らの面倒を見た。
わたしから相手へのベクトルしか、そこには無かった。
これは以前にもブログに書いた。
わたしから母へのベクトルしか、わたしの関心は無かった。
母に甘えたいと思ったことは、一度もなかった。

Pが今、わたしにどんな攻撃をしているのか、わからない。
そう思い続け、しかしPを疑い続け、AC人格を掘ってきた。
しかし今、わたしからPへの関心のベクトルを外せば、
そこに残るのは、何もない、のではなく、あったのだ。

わたしへの、わたしという存在への、
当然かのような無視、という攻撃である。

しかし、これが攻撃と気づかなかったのには
理由があったのだ。

20年わたしを育てたあの洗脳と調教に満ちた家庭では、
そのすべてが、その「当然かのような無視」が当たり前だったからだ。

ほっとできるところとしての家、
そんなのはわたしにはなかった。というか、ほっとできるとか、そういう感覚が
養われなかった。

その仕組みはこうだ。

家と外の区別がない。
家庭と社会の区別がない。

野生の動物は、親の元で安心して抱かれて育つ。
しかし、自立しなければならない。外に出なければならない。
外は自立しなければ生きていけない社会だからだ。

家は、社会ではない。

しかし、わたしの親たちは、家を「社会訓練の場」だと
完全に勘違いしていた。理由は、彼らが「家」とは何かを知らないからだ。
というのも、彼らもまた、家と外の区別のないような仕事の親たちの元に生まれ、
実際は社会でもなんでもない「親都合の群れ」に適合させるための、
一言でいえば「おじろくとおばさ」になるために、その「社会もどき」訓練を、
家というところで受けてきた人たちが、今度は親になって、子どもを育て始めたのだ。

家は社会ではないというのは、
自分と他人との区別ともいっていいと思う。
自分のもの、そういう所有の意識が完全に欠落しているのが
父と母であり、わたしがまさにそうだった。

わたしのもの、自分のもの、そしてこれは他人のもの、
この区別なくして、不満もなにもあったものではない。
正当な怒りは、自分のものが侵害されてはじめて感じるものであり、
そういう怒りを知っている者は、他人のものが侵害されても、それを
「他人事」として鈍感であることはできない。
つねに、目の前に展開する出来事は、自分と関係ないことなどないからだ。

ところが、わたしに欠落し続けた部分は、この
「自分のものだ」という意識だったから、どうしようもない。
元をたどると、家という本来、そこで自己の確かな壁、それは
社会で闘う準備でもあり、自分を守りぬく基盤となるものを作る、
その「家」というものを、わたしは持たなかったのだ。

家は、社会訓練の場である。

そう母は思っていたし、父などは論外で、
家こそ社会、その視点しか持たない病人だった。

ほっとする場でない、というのは、逆にいえば、
外の厳しさも知らない、教えない、ということと同じで、
つまり、あの人たちは、わたしを「外」になど出さなかった。
成人してから20年、そして、Pとの生活と仕事、
これは社会でも外でもない。

あの家の「延長線上」にある。

父と母は、母親から「いない存在」として扱われた人たちだ。
そういう人間が、子どもを人間として「いる存在」として扱えるわけがない。
これは昔きいたことだが、すごく小さい頃、わたしは歯医者で全身麻酔の経験があるようだ。
それは、全部の歯が虫歯になったからだと。

こういうのを、一般社会では、育児放棄、ネグレクトという。
わたしは、自分の家が、まさか、無視の家だとは思ったことがなかった。

わたしは、家族と一緒に食事をした光景をワンシーンも覚えていない。
どんなごはんを食べていたのかも覚えていないのだ。
それで、昨年母に、「僕は食べ物でどんなのが好きだった?」と
今思えばありえない質問をしたときに、なんといったかというと、
「よくごはんにお味噌汁をかけて、おいしい、おいしいって食べていたわよ」と。
これは前にも書いたことがあったと思うが、わたしは野菜を食べない子だった。
と、きいていたし、そう記憶していたのだが、昨年の母の話によれば、
「野菜なんか、食べさせなかったわよ」と、さらりと言った。
それと、泣き止まなかった生後のわたしに対して、「あの時はもうほんと、たいへんだった」
と言った時の母の醸し出す嫌悪感。

こういうことを話す母から伝わってきた感じは、
「わたしはちゃんと育児していました。なによ?何か不満なの、なんなのよ」
というものだった。不満だ、など一言も言っていないのに、自ら、母は墓穴を掘った。
そう、そして、昨年母が、一番力説したのは、
「育児放棄している他の母親たちへの批判」だった。

AC人格がよくやる手口だ。
自分が見たくない自分の中のことを
他人の中に見ては批判し、馬鹿にする。

母がひた隠しにしているのは、
この、わたしへの「無視」の事実だ。「無視」したことの記憶だ。
といって、あの人たちは、罪悪感を抱いているわけじゃない。
そこは捉え間違ってはならない。それしかできなかったはずだし、
意識的、無意識的かかわらず、事実、無視しようとしてしてきたのだ。

代理復讐である。

「自分が親にされたように、お前も孤立無援でいろ。ざまあみろ。」

父も母もそう思ってきたはずだ。

父はわがままはいいけど、わからんちんはダメだ、ということをよく子どもたちに話した。
口ではうまく言うけど、結局、彼が子どもに調教したのは、
「相手に要求するな。自分でなんとかしろ」に尽きる。
わがままとは、父にとって、それは自分でなんとかするものであり、
わからんちんとは、父にとって、相手を不快にさせること、
相手に不満をぶつけることのことだった。

「オレはなんでも一人でやってきたんだ。
誰にも頼らずやってきたんだ。なのに、子どもたちが同じ目にあわないで、
ボクが手に入れられなかったのを手にすることは、オレは認めない。」

というのが、父の言い分だ。

母が、「ちゃんと育てなければ、社会で自立できないから厳しく育てた」
とよく言っていたが、あなたたちがやってきたことは、わたしを無視し、
そうやって無視された人間は、どうやっていけば、他人様の役に立つのか、
それを、わたしたち(親)を練習相手に、教えてやるよ、ということだったのだ。

ここに投じる爆弾は、ひとつだ。

なぜ、わたしは、無視されなければならないのだ?
なぜ、わたしは、無視される存在だと、誰が決めたのだ?
無視されてきた存在は、あなたたちだろ。

「Aby、お前のものなど、何もないんだよ」

あるんだよ。勝手に決めつけるんじゃねえ、毒父。
「パパは何もいらない」、そうですか、勝手に一生そう言っていればいい。

わたしは、何もいらなくない。
あなたのように、自分を捨てたりはしない。
自分というテリトリー、自己という壁、それを取り戻すことは、
不満を感じ取るセンサーを修復する、ということだ。
あなたみたいに、不満はない、などと、不満たらたらに生きて死ぬ生死に
わたしは妥協しない。

Pは、わたしを無視している。
今に、ではなく、今までもずっと。

そういうことを、「わかって」しているのだ。
父と同じことを。あなたたちは同じ穴のむじなだ。

あなたたちのその無視に対して、
期待にこたえるわたしを、わたしはおりる。

無視され、一人になるのが怖い、
というのが、たとえ根っこにあろうと、
それは、もう、逃げる所ではないのだ、と
本気で決めて、とりかからなければならない。



2014.12.28
Aby


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by jh-no-no | 2014-12-28 20:15 | 復元ノート 1


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