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③素材集めの中間報告

 ・・・「②素材集めの中間報告」の続きです。


・・・


このあたりに前後しながら、ひとつ、自分の生前の性質を推測してみました。

それは、「自分は困ってはならない」という思いこみが最初からなかったか、
という推測です。あるいは、自分が困ることを「想定していなかった」とか
「無自覚に、はなから除外している」という可能性についてです。

というのも、もしも何らかの理由などで「自分は困ってはいけないんだ」と
思っていたとしたら、「困らないようにしよう」とするかもしれません。
たとえ困っている真っ最中でも、それ自体に気づかず、鈍感になり、
困っていることに麻痺している、ということも起こりえます。
それと反対に、自分が今困っていないのなら、これから困ることを事前に
シミュレーション(妄想)し、怖がる。そして、困らないようにしようと
手を打とうとする、ということがあるように思いました。

これ自体は推測で考えてみたものでしたが、
しばらく前から感じていた「自分はいいから、自分は大丈夫だから」という
妙な余裕がこれと結びついてきました。

「自分はいいから、自分は大丈夫、平気、困らないから」

そういうことではないだろうか、と思ったときに、
自己犠牲とは、別な言い方をすれば、「自分は困らないことを約束する」ような
ものではないだろうか、とふと、思いました。自己犠牲、というこの言葉が、
自分のなかで、ようやく定義されてきたように思います。

自分はいいんだ、大丈夫だ、というふうに、自分のことをないがしろにして、
役目の遂行ばかりにとらわれたことで、多少自分を切り売りしても問題ない、
この「自分は大丈夫だ」という過信の中に、「自分は困らないから」という
思いこみがあると思いました。

自己犠牲を多少したところでわたしは困らない、という過信。
これもまた、わたしの性質の一つだと思いました。

「自分のことよりも、役目の遂行のほうが大事だ。優先だ。」
「自分のことは(少しくらい)犠牲にしても、わたしは困らない。平気だ」

生前の自分の性質のなかでも、これは大問題な性質です。
自分を切り売りしている、自分を裏切っている、犯行現場そのものです。
必然的に、この性質はわたしの中でのさばっているAC人格の出鼻を許すことに
なります。許すもなにも、この性質を維持するうえで、むしろ、AC人格が機能
してくれることを、「このわたしの性質が」望んでいる、ということになります。
ならば、当然、このAC人格を育ててくれるにもってこいの毒親を、この
わたしの性質が(自覚的であろうがなかろうが)選ぶのは当然に思えます。


・・・


 ( 中 略 )


・・・


二日ほど前から、生前の自分に焦点をあわす時に、
「左右に二箇所で長い髪を結んだ小学校高学年から中学1・2年くらいの女の子」
が生前の自分のイメージと重なり出していました。

しばらくそれは置いておいたのですが、今日、その子が登場する場面が、
どうも、自分が契約手続きをしている最中の場面のように思えたので、意識を
向けてみることにしました。

生前の自分として登場していると思われるこの子は、その契約の場面でしきりに
「わたしなら大丈夫だから」という一点張りで、妙に、「急いでいる」。

この「わたしなら大丈夫だから」という言葉のニュアンスには、ひとつに
「わたしなら与えられた役目をちゃんと成し遂げられるから」という、どこか
強迫観念的なものに裏づけされた主張のようなものと、もうひとつは、
「わたし(自身)のことなら、平気だから(困らないから)」という、
これまたどこか自分をないがしろにし、無視し、過信した主張が
入り混じっているようでした。

この状況をたとえるなら、放射能の危険性について、しっかりその説明も聞かず、
「自分なら大丈夫だから」と過信して防護服もマスクも無しで、シャツ一枚で
汚染地域に入りこみ、自分ならできる、と盲目的に救助活動をしている姿と
重なります。

ここで疑問に思った点は、3点でした。

一つは、何もまわりが見えなくなるほど、なぜ、強迫観念的に何らかの役目を
果たそうと血眼になっているのか、という点。

二つ目は、「自分は大丈夫、自分は困らない」と自分の保護に対して、どうして
そんな妙な過信をしているのか、という点。

三つ目は、そもそも、なぜそんなに急いでいるのか(慌てているのか)、という点。

三つ目の「急いでいる」ことは、それほど大きな問題でないように思うけれど、
ただ契約のこの場面で受けるその印象は、なんだか見ていて、ひやひやする。
全く冷静に生まれてくる親や場所についての条件のチェックができていない、
やっていない、怠っているように感じました。

この三つの疑問を頭に置きながら、もう一度、今回の登場した二箇所で髪を
結わいた女の子に意識を向けてみることにしました。
これらの疑問に対して、「なぜ?」と問いかけるようにしました。

この子の記憶の映像と思えるようなものが、思い浮かびました。

まず言葉として、

「ミス」「事故」「水」

というのが想起され、どうやら断片的な映像ですが、
誰かはわからないのですが、人がおぼれている。

この子はそれを見て、飛びこんで助けようにも怖くてできなかった。
それから、おぼれていたその人は、死んでしまった・・・という映像でした。

それでこの子は、「あの時わたしがすぐに飛びこんでいれば、助けられたかも
しれない」という罪悪感を抱きます。

こういう過去をもしもこの子が持っていて、その罪悪感を生きていくなかで
強化してしまったとしたら、先ほどの一つ目の「すべきことに対する強迫観念」と
二つ目の「自分は大丈夫なはず、困らないという過信」と自己同化してしまった、
ということも納得がいくところがあります。

三つ目の、契約時になぜそんなに急がなければならなかったのか、については
よくわかりませんが、ただこれとは違いますが、あの異様な急ぎ感は、
わたしがよく見るあの電車に乗り遅れるというやつ、すごく焦って、でも、
結果間に合わない、行き先が逆のほうに乗ってしまうというあの失敗感を
これは連想させます。失敗の感覚としては、あの棒のぼりで失敗した時の感じ、
「次はぜったい失敗しない。このミスの償いはぜったいする」という感覚。
また今回想起されたシーンでいえば、「あの時すぐ飛びこんでいれば
間に合ったはずなのに!」という感覚ともとても似ています。

「あの時すぐに飛びこんでいたら、相手を助けられたろうし、
実は、自分も大丈夫だったのではないか・・・だとしたら、自分が臆病(自分を
優先してしまったために)、相手を死なせてしまった。助けられなかったんだ。」

こう考えたのではないだろうか、という気がしました。
この種の罪悪感、それに裏打ちされた強迫観念のようなものがある気がします。
その結果、「自分のことは二の次、三の次にしたとしても、自分は大丈夫だった
のではないか」という過信や誤認の元となるような「すりこみ」が、生前の自分に
生じたのではないか、というふうに思いました。

このことに関して、崩残さんが以前、桜の間で
「自分の一部を利他に使うことを許諾した可能性」について書かれていた内容を
確認してみました。(桜の間[236]「中高自我率が抱える問題点」という投稿の中
で書かれていた内容でした。)

>中途半端に、自我率を持っていた人は、変な余裕を感じてしまい、
>1/自分のことではないことに関わるのを許諾するという「契約」をしたり、

という箇所です。

今回のこのシーンでも、
「少しぐらい自己犠牲しても、自分に危害はなく(大丈夫、平気、困らない)、
利他的な行為をすることで、罪悪感は清算できますよ」みたいな文句に
まんまとひっかかったのではないか・・・と想像しました。
しかもその利他的とは、以前にも確認した「自己犠牲の上に成立する幻想上の」
利他、ということだと思います。


・・・


繰り返しになりますが、ここには、やはり、自分の性質として、どこかに
「自分は大丈夫だ」という過信、自分のことはそんなに考えなくても困ることに
ならないよ、というおごった姿勢があるように思います。

何でも自分一人で対処できるはずだ、という思いこみもあります。

だから何か問題が生じると、自動的な反応として、
「自分がなんとかしよう」とします。

たとえ他の人の問題であっても、勝手に自分がいらぬ責任感を感じて、
引き受けようとします(余計なお世話というやつです)。
それもたちが悪いのは、「やってあげよう」と意図してするのでなく、
自覚無く、当然のことのようにやろうとします。

「自分が悪かったんじゃないか」とか「自分が間違っていたのではないか」と
まず考えてしまう反応癖も、こういったところからも出てくるように思いますが、
ここで問題が生じると思うのは、もしもこのような考えが頭をよぎった時点で、
「自分の意思」が無い、あるいは相当希薄であった場合、こここそ、毒親の
つけいる隙になったに違いないと思いました。そこでの取引でさらに叩かれ、
主体性を奪われ、完全に自分の意思や判断基準を奪ってしまうことに成功
すれば、後は恐怖をちらつかせ、毒親の基準でコントロールさせることは容易
となり、顔色をうかがうAC人格はあっという間にできあがってしまいます。

問題は、「自分が悪かったんじゃないか」と考えたり「自分が間違っていたのでは
ないか」と考えたりすることそのものでなく、そう考えたりするときに、
その解決を自分の意思と判断で、考え、行動に出られるかどうか、ということだ
と、先日AC人格と対峙することで確認することができた点ではありますが、
わたしのそもそもの問題点は、「自分が悪かったんじゃないか」と考えるその背景
に、すでに「自分の意思を放棄している」ことが含まれていたことでした。

もしも毒親でなければ、子どもが「自分が悪かったんじゃないだろうか」と
考えているのを目にしたら(そんなことあえて言わないと思いますが)、
「自分が悪いと思うなら、自分でそう考えて、自分で行動しなさい」と
言えると思います。子どもを親の道具にしようとしないからです。でも、
わたしの親のように、「自分のせいじゃないだろうか」と思っている子どもを、
それいいことに、逆手に利用し、さらに自責感をあおり、顔色をうかがわせ、
親の都合のいい方向に誘導し、利用する。顔色一つでビクッとさせたり、
ホッとさせたりという、恐怖と嘘の安心(不快感)という檻から出さないように
調教する。こういうことを平気でやってきたのがわたしの両親ではあるけれども、
事の発端は、自分を譲り渡す準備がわたしにあったからひっかかったわけで、
そうでなく、生前から自分を切り売りすることなく、
「自分が悪いと思うなら、自分でそう考えて、自分で行動するのは当然」と
親に言われなくとも、自分が言えればよかったのではないか。


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6/29(日)

朝起きて、夢を思い出そうとしました。
断片的なシーンが多く、ストーリー性はなかったように思いますが、
二つの場面でのわたしの反応で気になったことがありました。

それは、
「あなたの言っていること、やっていることは間違っている」と他人に
言われたとき、それをそのまま「鵜呑み」にしてしまう点でした。

いずれのシーンでも、自分はよかれと思って言ったりやったりしているのですが、
突如、他人からただ「間違っている」と一言いわれるだけで、自分をひいてしまう。
考えてみると、これは現実でも今までよくあったこと、今もある反応なのですが、
ここに他人から明確な説明、なぜ間違っているか、というのも特に無く、それよりも
わたし自身が「なぜ、間違っているのか?」ときくスタンスすら全く欠けていて、
相手の言いなり、いくらそれまでの間、堂々とした態度をしていても、いざ一言、
他人から「間違っているよ、あなた」と言われるだけで無抵抗で
受け入れてしまう。

間違っている、と言われたその時点で、思考停止している。

ここで考えたり、抵抗したり、相手と衝突するのを
反射的に避けようとしているようにも感じました。

根深くこの反応が残っていることを
指し示している夢だと思いました。


・・・


Bの作業をしているときに、ふと、「そろばん」「計算」という言葉とともに、
生前の自分の姿としての、あの修理屋のおじさんと一緒に、「測量」という言葉が
思い浮かびました。

なにやらこれを特技としている仕事のようで、他人(お客さん?)から
「Abyさんのは信頼できるよ」と言われている、そんな気がしました。

精度や管理という点で、

「いい加減でない」
「注文通り、しっかり整える」

というところが、評価されているようでした。

扱っている物は、どこか「武器」のような印象があるのですが、よくわかりません。
ただその商品の特徴として、ごくわずかな狂いが影響するような、そういった類の
何かを扱っているようでした。厳密さのようなものが要求されている印象です。

そろばんに関しては、わたしが小学生の頃、実際に習っていて、たしかに当時は
計算(おもに暗算)が得意で、近所の軽食点で食事をしても、すぐにおつりの計算
などをし、お店の人を驚かせていました(今思えば、驚いてくれていたのですが)。
また自分のうちの店では、よく昔ながらのタバコ屋さんのコーナーにこもり、
いつも店番をしていました。これまたピシッとタバコを陳列し、きれいに整え、
お客さんとお金のやりとり(レジ係り)をしていました。当時はほとんど機械的な
ものがなかったので、暗算能力は、店番をする子どもには重要なものでした。

「言われた通り、しっかりちゃんとこなせること」

このことに価値をおいているようでした。
実際、今思い返すと、幼少期のわたしは、この「言われた通り、しっかりちゃんと
こなせること」に喜びを見出していました。

これ自体は害ではなくても、もしもここに、
「自分のことよりも、役目の遂行のほうが大事だ。優先だ。」
「自分のことは(少しくらい)犠牲にしても、わたしは困らない。平気だ」

というこの問題な価値観が入り込んでしまうと、ただちにこれは、

「相手の言われた通りにすることを優先してしまう」

という有毒なものになってしまうことに気づきました。
他人にこの性質を悪用されてしまうことにもなり、ここでもそれをフルに活用した
のが、わたしの両親だったということになると思います。


・・・


話の内容が、AとBの作業に関することになるのですが、
ここ数日、Aの作業とBの作業とで、差がつかなくなってきている、と
感じています。

どちらの作業をしているのかという区別なく自分の意識が同じ位置にいる、
あるいは、その方向に向けているという感じがします。上手く言えないのですが、
位置としては脳のやや後方部にその中心があるような感じです。


 ( 中 略 )


Bの作業はわたしの中では「いきなり脳のそのところ」にポンと居るようにする
感覚ですが、それがどうも不安定で弱いと感じるときは、Aの作業をすることで、
Bの作業に集中しやすくなるというのがあると感じています。

またときどき、じわん、じわんと頭頂部がうずく時があります。


・・・


子どもの頃(たぶん8歳前後)の自分がお祭りで遊んでいる姿が想起されました。
どうやらそこは縁日のようで、スーパーボールすくいのところで、一人で
じっと見て、関心を向けているようでした。それ以降のシーンは、連想するように
今度は今まで知っているシーン(ビデオ撮影などで覚えているプールやショーを
見ている時のシーン)などが映像として混じってきました。

これらの映像のなかの自分の様子を見て感じたことは、
「自分が関心を向けたもの(見たいと思っているものなど)から、
すぐに(短い時間で)注意がそれてしまっている」という印象でした。

「自分が好きなもの、見たいもの、やっていたいものに、ずっと意識(関心)を
向けていてはいけない」

という感覚があるようで、ある一定の時間がたったら、急にまわりを気にする、と
いった感じ。気にするというより、自らの関心の的から視点を外す感じ。
自分の関心を向けたものを注視し続けるのが、居心地悪くなるような感じです。

「夢中になれない」

ということがつねにあるようです。(これはわたしの妹のAちゃんにも強くある)

夢中になっていると、「ほら、こっち見えていないぞ」と背中をポンとたたかれる
のを警戒しているようでもあり、背中にも目をつけていなければ「本当はいけない
んだ」と無意識に思っているようでもあります。

ちょうどこんなところをイメージしている最中に、不思議なことがありました。

急に、自分が小学生の頃の「生活感」の記憶と映像が思い出されてきました。
今までまったく思い出されなかった感覚で、写真でも見ないかぎり、その頃の
自分が本当にいたのかどうかさえわからないことがほとんどで(実際、アルバム
の写真を見て、その場面を覚えていることは、成人前のシーンでは皆無です)、
しかし、今回はなぜか急に、小学生の頃のわたしが「動いていて、何かをしている
映像」が思い浮かんできたので、すごく驚きました。

驚いている場合ではない、と思って、その映像と時期に焦点を当てて、
母と父とどんなことを自分は話をしただろう・・・という一点にしぼって
記憶を開いてみようとやってみました。

具体的な話の内容は思い出されないのですが、どうやら母との会話は、
「~しなさい」と母から言われたら、それをする、というものしかなく、
父に対しては、「~したんだ、~できたよ」というふうに、なんと父を喜ばす報告
しかしていなかったようでした。マジか・・・と思った。

「母の命令(指示)に、嫌な顔ひとつせず、忠実のこなしている自分」の姿と、
「父を喜ばすことを、あたかもそれが当然のように日々こなしている自分」の姿。

これだけだった。

これだけだったと思えるほど、ワンパターンで機械的な対話(にもなっていない)
シーンがリアルに想起されてきました。写真やビデオなんかよりずっとリアルに。

これについては生前の自分の姿ではまったくないのですが、急にこのあたりの
記憶が「開かれた」ように感じて驚きました。

この二つの対話しかない光景は、まさに洗脳され調教された子どもが、ロボットの
ように決められたことを繰り返す非人道的なぞっとする光景でした。
しかし、昔のわたしは、この繰り返しこそが日常であり、ここに何ひとつ、
疑問を抱いていませんでした。


・・・


 ( 中 略 )


その時浮かび上がってきた言葉と映像のイメージは、

「あきらめない」「弱音をはかない」「最後までやる」「他人を悪く言わない」
「やさしい」「怒らない」「許す」「(他人に対しては)しかたない」
「代わりにやる」「望まない」「自制的」「自分は平気」

こんな言葉とイメージがわいてきましたが、これは生前の性質というより、
こういうのがいいと思っている価値観や先入観のようなものだと思いました。


・・・


6/30(月)

この日の夢について。

具体的なシーンではないのですが、夢に出てきた自分の振る舞い方や様子の
印象として目が覚めたときに強く抱いたのは、

「無防備」
「一人でやる」
「平気」

というものでした。自分自身のことに対して無防備、自分一人で遂行できる、
だから平気、大丈夫といった感じです。

ここに何か新しく価値観や衝動について知る素材は得られなかったのですが、
ここのところ探りつつある生前の自分の性格のようなものが、
色濃くなってきている、そういうふうに感じました。


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以上、素材集めの中間報告をさせていただきます。


Aby



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2014.07.01
Aby


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by jh-no-no | 2014-07-02 02:05 | 復元ノート 1


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