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(2) 母の調教

「(1) 母の調教」の続きです。 


・・・


「わたしは人の心とか感情とかわからないんだよ」

という言葉を、母はどんな場面で言われたのだろうか?
それが気になったので、確かめたくて話をきいた。


暴力のあった家庭。
いつ、兄や母親に暴力を振るうかわからない父親。
母の母親は、兄たちを守るために、いつでも家を
飛び出していけるような態勢。
落ち着くことのできない家。
仕事も忙しくて相談もできない母親。


でも本当は父でなく、わたしの母は「母親」に甘えたかった。
母親に目を向けてほしかった。
相談もできない状況だったから、反抗期もなかったという。
それどころじゃなかった、と。
不穏な家、いつ母親が出ていってしまうかわからない状態。

そうやって家を出て行きそうになり、いつ自分が置いていかれるか、
いつ娘のわたしが見捨てられるかわからない。
急にいないことに気づく。


・・・今日は家に戻ってきた。

・・・今日はまだ帰ってこない。


どこかに行くときは、紙に書いてわたしに渡してほしい、と
頼んだことがあったみたいで、ある日、手紙が置いてあり、
「〇〇へ行きます」と書いてあったのを母は見つけ、
すぐに家を飛び出して、でももう姿は見えず、泣きわめいた。
無事帰ってきたものの、このときの不安な気持ちを母親に訴えても、
「そんなこと言われても、わたしにはわからないよ」と
話にものってもらえなかった、ということだった。

「わたしは仕事で忙しいんだから。これしかないんだから」
の一言で片づけられたことに、母は今でも強く恨んでいる。

「仕事を理由に子どもを見ない親は育児放棄だ」
と考え、そういう類の他の母親を軽蔑していたのも
この記憶が強いためだった。

いとこの両親(つまり、わたしの父の兄とその妻)は
まさにこのタイプで、いとこの不幸を母は強く望んでいたであろうし、
同い年のいとこで子どもには非がなくても、
「あんなふうになったら、うちの子じゃないから」と、あんなふう、
という実像もないまま、子どもたちに言い聞かせた。


仕事にかこつけて、娘を見捨て、兄だけをかばった母親を
わたしの母は恨んでいた。そしてなにより、母にとって
決定的だったのは、いくら泣きじゃくっても、


「わたしは人の心とか感情とかわからないんだよ」


と、感情そのものを否定されるようにして、
有無を言わさず宣告されたことだった。


こういった母の経験は、わたしに対して、
「他人の気持ちがわかるようになりなさい。察しなさい。
我慢は大事です。そして自立した大人になりなさい」という
子育て方針として、見事にあらわれている。


このエピソードを詳しくきいていくうちに、

もしかしたら、


「感情を押し殺せないのはダメだ」


と、この悲しい出来事のときに抱いただろう自己否定の感情を、
わたしに植え付けた可能性はないだろうか?


「自分なんて無価値だ」という父の自己否定の感情が
わたしにコピーされただけでなく、それとは別の、しかし、
感情の否定、という意味では非常に似た自己否定の感情を、
母からもコピーされたのではないか?


・・・


私は仕事柄、赤ちゃんと呼ばれるかなり小さい
子どもにも接することがある。

とくに赤ちゃんは、当たり前だけれど、快・不快が中心で、
「したいことはする、したくないことはしない」という行動が見て取れる。
子どもによって差はあるが、1歳後半にもなると、かなり親からの刷り込みも
影響していて、子どもによっては、まわりの空気を読もうとし、結果、
したいことも我慢し、したくないこともイヤイヤやっている場面を
たくさん目にする。

そういうふうに、まわりの目をすごく気にしている子どもは、
とりあえず「どうしていいかわからない」という顔をするし、
自分から動く、ということがなかなか出来ない。
わたし自身を見るようだが、客観的に見ると、それがよく見える。
「したいことをしている、したくないことはしていない」子どもとは
まったく違う動きをする。

観察していて気づいたことだけれど、幼い頃というのは
幼ければ幼いほど知識に頼ることがないだろうから、
今自分がどう感じているか、が行動指針になっているように見える。
逆にいえば、行動の動機の根拠が「自分の感情」しかなく、

したいことがあればそれに向かう、

したくなければ途中だろうが、なんだろうが、放り出す。

次から次へと自分の関心をコンパスにして動く。
まわりに人がいることは知っていても、行動指針に影響していることはなく、
必要があれば、まわりの人にサインを出す。
必要がなければ、すきなような、動き回る。

いたって自然に見える。

ただ、一方で、
動けない子がいる。あるいは、もう少し大きくなると、
決まったことなら動ける、という子がいる。
そういうタイプの子たちから共通して感じるのは、
「どうしたらいいのかわからない」という感情、不安だ。

指示待ちで、不安なまま思考停止している状態。

したいことをする、したくないことをしない、という
当然に認められるべき感情をそのまま行動に移せれば、
何も迷うことはなくただそうするし、むしろ邪魔されたら怒るわけだけど、
その「感情そのものをおさえなさい」と調教に成功したいた場合は、
子どもは当然ながら、何を根拠に動いていいかわからなくなる。
だから、フリーズしてしまうし、誰かの命令や指示を待つようになる。
大人になるにつれて、いくら自分の頭で考えているようであっても、
その命令や指示に従ったことによる陳腐な成功体験による知識と
自己同化(穴埋め)しているだけ、という意味では、大人になっても
指示待ち状態であることには変わらない・・・


子どもたちを観察していて、無自覚にわたし自身が
受け入れてしまっている思いこみがあることに気づいた。


「どうしたらいいのかわからない」という不安、そういった感情は、
わたしはずっと、誰にでも持っている感情で、ごく自然なことで、
だからこそ、それこそ勉強し、経験を重ねていくんだ、と、
それこそ、調教由来の考え方に染まりきっていたが、
目の前の出来事を観察していくと、そもそも、


「どうしたらいいかわからない」


という漠然した不安感、実体のないただの不安というのは、
不自然な感情ではないだろうか?ということだった。


これは自然な感情でなく、不自然な感情では?


こういう感情を持ったまま大人になると、
AC人格による麻痺がより巧妙になり、のさばりが酷くなることはあれ、
不安はそのままに放置されてしまうのではないだろうか。


このことと、わたし自身のことがリンクしたのは、
先日の電話で、母からこんな話をきいたからだ。


「わたしがとくに5歳よりも小さいくらいの頃、
どこかオロオロしていたり、どうしたらいいのか戸惑っていたりするような
そういう光景って、なかった?」

ときいて、母から予想外の答えが返ってきた。


「なかったよ」


「え?本当??」


少し黙ってから、


「・・・というかね、、、わたしはとりあえず必死だったのね。
子どもなんて生まれちゃった、と。なんとか一人前にしなきゃ、
自立した大人にしなきゃって。」


意味、わからない。


それで、もう少しわかりやすく、と思って


「んー、たとえば、何か買ったりするでしょ。どっちにしようかな、とかさ。
それは簡単すぎる例けど、たとえば他に、公園いくかいかないかとか、
どっちにする、と言われて、モゾモゾみたいなことはなかったかな?」


きっと、言いにくかったのだろう。
「だからね」と言い出しにくそうに話し始めた。


「だからね、どっちにする、なんてきいたこともなかったよ。
Abyに選ばせなかった。こうしなさい、と言うだけだった」

と。


そこまでだったか・・・と、事実を知って驚いたけど、
どこががいろいろつながってきた。


「Abyはね、こうしなさい、と言ったことに対して、
逆らったこともなかった。いい子だったのよね。
わたしは、なんとか子どもに正しいことを教えないといけない、
ダメなことはダメといわなきゃいけない、そう思っていたから、
自由奔放にしている親を見ると、イライラしてしかたがなかった。
なんでダメなことをダメと言えないんだろう、叱ることも
できないんだろう、と。だからわたしは、そういう親にはならないと思って、
厳しく育てたし、たくさん我慢をさせた。
おなかがすいた、とAbyが言っても、我慢しなさいともよく言った。
おなかがすいたって言えば自動的に出てくるわけじゃないのだから。
こっちは疲れているんだし、女中じゃなんだから」


母の話をきいているうちにわかったことは、
「したいことを我慢し、したくないこともできるようになる」のが
どうやら自立の定義らしかった。
文句が言いたいことがあっても、それをぐっとこらえられる人間こそ、
自立した人間だ、という思いこみが母にあった。

「喜怒哀楽の感情は、表に出してはいけない。
あくまでも対人に対しては平然と振舞える大人。
そういう自立した人間に育てなきゃ、という思いで精一杯だった」

と、そんな話も先日きくことができた。
そういうスタンス自体は、今でも間違っていなかった、と母は思っている。
ただ、少し厳しすぎたかな、という程度で。
ふと思い出したが、父がわたしの妹に対して、
「鏡を見てごらん。あなたは世界一美人なんだよ。だから
怒ったりしてはダメだよ。相手を不愉快にさせてしまうからね。
それくらい、あなたは素敵な女性なんだってことを自覚しなさい」
という調教と、実質的には変わらない。


感情を表に出してはいけない。

感情は押し殺せなけばならない。


おじろくとして育った父だけじゃない。
いや、むしろ父は仕事をしている時間もあったし、
格言という言葉の影響を与えるには、比較的、
大きくなってからだろうから、
母による調教の影響は、もっと強い可能性が高い、と思った。

「0歳の頃から、子どもとしては見ていなかった。
自立した一人の人間として見ていた」と言うくらいの母だから、
言語レベル以前に、強い影響をわたしに与えていたに違いない。


「自分にはどうして喜怒哀楽がない、と思っているんだろう」
とわたしが思いこむのも、これでは当然だ。


どういう感情が不自然もなにも、
生じて当然な子どもらしい感情が起こらず、
当時の感情そのものを「覚えていない」こと自体、
これは相当不自然なのではないか?


わたしはそもそも泣いた記憶が、ほとんど、ない。
わたしが忘れているだけだ、と思っていた。
だいたい、泣かない子なんていない。
そう思っていた。
ところが、まさかと思って母にきいた。

「Abyは泣かなかったよ。うん、泣かなかった」


とりわけ5歳までの記憶が思い出せないのも、
感情とリンクしている出来事がほとんどない。

鮮明なものは、不快年表にもあるが、今のところ、
たった2つ。泣いた記憶の2つだ。

それは、親に何かを伝えたかったけど、少し時間がたってしまって
忘れてしまったことがショックで、泣いたこと。
親に抱っこしてあやしてもらったと記憶しているが、
なぜか、この「思い出せなかった」ことが、相当、嫌だったららしく、
このことを覚えている。
このことはなぜ覚えているのか、わからない。

もう一つは、今のところ最古の記憶で、
たぶん4歳頃だろう、当時(インターネットで調べてようやくわかった)
「レッドタイガー」というヒーローがいて、後楽園遊園地で
おそらくショーを見たことがあって、帰りにポスターやお面を
買ったのだろう。その当時住んでいた家の他のことは
ほとんど覚えていないのに、そのポスターが貼ってあった場所も
覚えているほどだ。

というのも、わたしは、そのお面を母に「破られた」ことがあり、
大泣きした。「なんてことしてくれたんだー!」というショックだった。
わたしはレッドタイガーが本当に好きだったから、
この世の終わりくらいの泣き方をしたのだと思う。
たぶんわたしが悪さをしたか、言うことをきかなかったかだろうが、
それはないだろう、という思いだったろう。
おそらくその時に涙を浮かべてながめていたのが、
そのポスター、破られていない等身大のポスターだったんだ。

お面を破られた話を母にしたら、
「そういうこともあったけ」と覚えていなかった。
ただ、それを話したときに、わたしが小学生の頃のエピソードを
ひとつ、母が話した。

それは、毎日やることになっていたドリルを、わたしがおそらく
やりたくなかったのだろう、一日さぼってしまったとき、
母が「そんなんなら、もうやらなくていい」とビリビリに破いて、
その時、わたしは「なんてことしてくれたんだー!」と大泣きして、
一人でセロハンテープで貼り合わせていた、という。
母はこのときの、わたしの嘆きようが印象に残っているようで、
わたし自身は、忘れかけているのだけれど、
母はこのことが強く印象に残っている、ということだった。

その話をきいて、わたしは、
「きっとお面の出来事と重なったんだ」と思った。
たしか、お面もセロハンテープで貼り合わせていた気がする。
わたしにとってはお面事件は、相当悲しかったらしく、
不快年表でもまっさきにあがったものだった。

それで、はっと思ったのは、わたしにしても母にしても
わたしが感情的になった出来事は、実は、ほとんどないようだ、
ということだった。それには驚いた。
わたしは子どもというのは、つねに感情的なものだ、と思っていたから、
わたしのイヤイヤ期はどんなだったか、どれほどてこずらせたか、
という話を期待していたのに、今回も、

「そもそもAbyはね、そういうことがなかったよ」

と母が言うのをきいて、それは嘘だろ、と最初は思った。

でも、ここで母が嘘を言う理由もないし、わたしと母の記憶を重ね合わせても、
酷く感情が麻痺したような子ども時代であったことは、明白だった。
今でも母は、わたしのその無感情ぶりを決しておかしいことでなく、
「Abyは、小さい頃から自立していた」と思いこんでいる。
「それに比べ、一番下の子は甘やかしすぎちゃって、いやなときはいや、
好き勝手なことをする子に育っちゃったよ。失敗した」と言っているところを見ると、
どうやら、母にとっての自立とは、「我慢」のこと以外、何ものでもなかった。


・・・だんだん、母の、自分の母親との確執の内容と、
いろいろなパーツがつながってきた。


泣き喚いても戻ってきてくれなかった母。
高校生の頃、結局は、母親は兄たちを連れて、夫からの
暴力から逃げるように、出て行った。
娘と夫を置いて、娘を見捨てた。

母は泣いても泣いても、
「わたしにはね、人の心とか感情なんてわからないんだよ」
と言われて、話もきいてくれず、兄たちからは
「泣いてばかりで自立できない、ダメなやつ」と侮蔑された。

母の母親は、その兄の味方をしたのだ。

母はきっと、感情を自制できず、これを自立できていないことと
思いこみ、「感情を押し殺せない自分はダメだ」と自己否定に
至ったのではないだろうか。だからわたしは母に捨てられたのだ、
とさえ思っている可能性がある。


「感情を押し殺しなさい」


今わたしが日々漠然とぶちあたる不安、しかし、どこから来るかわからない
この「どうしたらいいのかわからない」という実体のない不安が、
もしかしたら、母のこの自己否定感情が、コピーされたことにも
起因しているのではないだろうか?

選択の余地も与えず、マシンガンのように
「こうしなさい、ああしなさい」と命令だけ、間髪いれず、
わたしの反応なんか完全無視して与えて続けていたのであれば、
そこに自主性など、根こそぎ、奪われるにきまっている。
「感じて動く」という行為を、全否定されるようなものだ。


したいことは我慢するように!

したくないことはできるように!


感じた通り動くな!と言っているのと同じだ。

そこで混乱する。

子どもを不安にさせさえすれば、やりたい放題。

毒親が子どもに歩かせたい方向に指をさす。

「あっちへ行きなさい」

従う。

それでいい。

これでおしまいだ。


「ほめるってことも、あまりなかったね。
それでいい、って感じくらいで。それにAbyは逆らわなかったから、
叱ることもほとんどなかった」と、母が言うとおりだったのだ。


母の言う「いい子」とは、無感情で、何があっても
「平気な顔」でいられる子のことだ。
しかもそれを自分で制御できる子。


「わたしは困っていない。平気、大丈夫」
「自分でなんとかする。相談してはいけない」


こういったAC人格の行動も、強く母からの影響が見られる。
教えて、なんて言ってはならない。それに、教えてもらうような状況、
相談するような状況になってはダメなのだ。なぜなら、
母からすればAbyはつねに「自立しているはずだから」。


平然としていられる人でありなさい。


プールで溺れて水の恐怖を感じ、
「こわい」と思いながらも、わざと水の中で宙返りするなど何度も繰り返し、
「こわい」と感じてしまうのはいけないんだ、こわくない、こわくない、と
自分の感情を否定し、しかもそれは、自分ひとりで、誰にも相談することなく、
大丈夫にならないといけない。


こんなところまで、母の調教は浸透したのだと思った。

ここまででも随分酷いが、母の代理復讐はここで終わらない。

大学に入学し、わたしはPさんと出会う。

わたしが選んだ人だ、と思っていたけれど、
母のその自己否定の感情を分析してみて、はっと思った。

同じような人、知っている。

Pさん・・・だ。

Pさんも、母に「あてがわれた」??


 ・・・ 「(3) 母の調教」に続きます。



2013.12.01
Aby



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by jh-no-no | 2013-12-01 18:39 | 復元ノート 1


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