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父の毒っけ

 ◇ ◇ ◇
 10月10日(木)
 ◇ ◇ ◇

朝起きて、こうやってブログを書き始めるのは、はじめてだ。

書こう。

今朝、7時ちょうどに起きた。ぴったり。
だからなんだ、ということはないのだけれど、
とりあえず、寝起きがよかった。

驚いたことに、起床後3秒程度だが、わたしは笑っていた。

寝起きというのは、わたしの場合、基本的に
「また今日も一日はじまるのか・・・」と、億劫な思いではじまるのが常だった。

気がつくと、いつものように、今日の場合は
「わたしの父の調教ぶり、というより、あの身勝手さ」に
床のなかにいながらも、ああだこうだ、考えていたわけだけれど、
ふと、笑って起きたのを思い出し、また珍しく、夢をわずか覚えていた。

まったく主観的な映像だと思うけれど、
書いてみたいと思う。

・・・


船が何かを運んできた。

わたしは、下をのぞきこんだ。

ゾウだ。

一匹のゾウが、移動されてきたのか、
可哀想なほど狭いところに、ぴったり収納されるように
運ばれてきた。

目と目があった。

その瞬間、水を「プファ~」と勢いよく鼻から出し、
わたしはビショビショだ。
重く、でもそれは気持ちのいい水で、
わたしは笑った。

次の瞬間、大きなプールを挟んで、
ゾウは、向こう岸にいて、空高く、鼻を向け、
一気に水を放つ。

大きな半円を描き、わたしのいるこちらの岸に
水が届く。


・・・


で、おそらく、目が覚めて、わたしは笑っていたようだ。

たった数秒のことで、次の瞬間には、父親のことを考えていたから
忘れそうだったけれど、今までにわたしはこんな絵本のように
きれいな映像の夢を見たことがなかったから、思い出せてよかった。

最近は思い出せると、ホッとする。
つらいこともうれしいことも、忘れてしまってはわからなくなるから。

ゾウは船でとても窮屈そうだった。

窮屈な思いが、ゾウの姿として映ったのかもしれない。

解き放ちたいという思いが、あの重くても、ずっしり存在感のある水の放出。

と、思い出していると、

それだけじゃなかったな、と。嫌なシーンもあった。

ブログで書いたせいかもしれないが、
「電車に乗り遅れる」夢だ。
乗り遅れ方にはいろいろなパターンがあって、そうそう、
今日のパターンはよくあるやつだった。

「間に合った!」と思ってプラットホームに着くと、
行き先が逆であることに気づき、反対のホームに戻る頃には
たいてい間に合わない、というもの。

・・・というシーンもあったし、

見ず知らずの人に因縁つけられて、
殴られて意識を失った夢も見た。
そういえば、昔ある時期は、よくピストルでうたれる夢ばかり見た。

こんなシーンもあった。

これはわたしの性的なものへの不満の表れかもしれないが、
どこか知っているような、知らないような女性だったが、
その人からちょっとエロティックなDVDを借りて、それを見ている夢。
といっても、アダルトビデオのようではなく、わたしが
異性に抱いている感覚的な妄想の寄せ集めのような内容だったような。
交換日記のようなノリで、交換DVDをしている。

・・・いや、これは今はいいかな。
かなり主観的な夢のメモになってしまったが、
夢を思い出せるのは、そこでの出来事も不快を掘る場所になるわけだから、
思い出すのに必死になる。

起きてすぐに回収作業をしないと、と思っているのですが、
最近は夢だけでなく、起きた瞬間、わたしが何を思っているかなど考えてしまい、
しばらく時間があいてしまうことがある。

回収作業をしてすぐ今日は、ブログを書きはじめてみた。

前置きが長くなってしまったが、今日は、昨晩に考えていたこと、
父親の毒っけについてノートしたい。


・・・


「あるにこしたことはない」


父のたくさんあるうちの一つの口癖。


「過ぎたるは及ばざるがごとし」と言ってやりたいが、
言ってもムダだ。どんな格言も、反対の意味もあるわけで、
父は自分の保身のためなら、簡単に意見をひっくりかえして
都合のよい格言やことわざを持ってきた。

他人のことは言えない。

わたしもずっとそうやって保身をしてきた。
父の影響だ、とは思っていなかったけれど、
この「あるにこしたことはない」を思い出して、
十分な影響を受けたのだと思った。

成人後は、あるにこしたことはない、など父が言うと、
「そんなことはないよ。あるから邪魔になることもたくさんある」
といって反論した。だから、わたしは父の意見には従わないし、
屈していない、自立している、とずっと錯覚していたが、
たとえ成人後にそう言えていたとしても、そのことと、
影響を受けていないこととは、まったく別なことに気づいた。

今のわたしの仕事や内職の内容は、わたしが学校で
勉強したことでもなければ、卒業後、何か資格という資格をとって
はじめた仕事ではない。ほぼ独学で現場で学んだ。

そのことを父は会うたびに、

「資格はあったにこしたことはない」と言う。
「だから、そんな時代じゃないんだって」と言っても、きいちゃいない。

ここには、今の時点でわたしが切り返せるかどうかでなく、
幼い頃にこそ、大きな影響を受けていると思った。

わたしは、文科系、理科系といえば、理科系の分野に属する学部で
大学時代は勉強をした。
わたしはその頃から、自分の意思がなげやりになっていたこともあるが、
高校になって文科系、理科系を選択するときに、
わたしは理科系を選んだ。

なぜ、どっちでもいいや、と思っていたのに、
理科系にしたんだろう・・・?

思い出してみた。

そう。父はよく言っていた。

「どちらも大事な勉強。Abyの好きにしなさい。
ただね、理系は文系に移れるけど、文系は理系にはなれない。」

と、何を根拠に言っていたのか、今となってはわけわからないけど、
わたしは、いろいろ主張するわりにはボケッとしているところがあって、
「そうなんだ」と思った。

父にとって、理系は「大」で文系は「小」。大は小を兼ねる、らしい。

なら、理系にしておこう、という程度に、
わたしは考えなしだったのではないか、と思った。
思い返すと、たしかにこれくらいしか、判断基準がないほど、
その頃にはわたしは、何か、自分の意思というか、やりたいこととかが
わらなくなり、自分で決められなくなっていたのかもしれない。
(Pさんに出会った時には、もうすでに何かを自分で決める、という
意思が相当に希薄になっていた。だから依存の種を植えてしまったに違いない。)

大は小をかねる、だの、あるにこしたことはない、だの、
「何を美しいことを言ってるのか・・・」と成人後は、父の愚痴に
つきあっていた「程度」の認識しか持っていなかったが、
今になって、

「わたしの父親は、実は、本人が無自覚だろうが自覚的だろうが、
相当に毒っけがあったのではないか?」

と思い始めた。愚痴につきあっている場合じゃないのでは・・・と。

母のほうがどちらかというと、気づきにくい調教で、
手ごわいと思っていて、父親のことを軽く見ていた。

父の巧みなコントロールがそこにあった。

父は、必ずこういう言い方をしたのを思い出した。


「Abyの好きにしなさい。自分の人生は自分の決めるんだから。
ただ、~ということはあるから(気をつけて)ね」


という言い方だった。思えば、今もそうだ。


必ず最初に「自由」を強調する。


次に、「補足説明」だ。


この順序は、とても大事だったのではないだろうか。

「~ということも(事実として←父の場合それ自体アヤシイが)あるかもしれないけど、
それは一情報として、Abyは自分の好きにしなさい」

という順序でわたしに届いていたら、随分、結果も違っていたのではないか。

もちろん、わたし自身、「ゆずる」「我慢をする」「相手の意向に従う」という
希釈自我ならではの振る舞いをしたわけだから、わたしがそれを許すという、
してはいけないことをしてしまったわけだけれど。

でも、このやり方は姑息だ。

「好きにしなさい。でも、お父さんはこうしてほしい」と言っているのと同じで、
父は、わたしに、「自分の意思と、父の希望」を、秤に「かけさせた」。
二者択一だ。わたしは手放してはいけないほうを手放した。

父の希望を、無自覚に叶えていた。

それは「父の希望」とすら、思っていなかったかもしれない。
「そうするものだ」という感覚で、わたしは自分の歩く道が決まっていた。

しかもそれは、「わたしが選択したかのように」思わせながら。
Abyが自分でいつも選択した、とよく言うけど、本当か。

わたしは中学から私立の学校に通った。
別に勉強ができるほうでもなく、受験勉強も高学年からはじめたから
その当時は偏差値がそれほど高くない私立中学に入ることができた。

これについては「わたしは私立に行きたい」と言った、と
両親は言う。

そうだと今まで思いこんでいた。


本当だろうか?


わたしは小学生の頃、「私立に行きたい?」と似た質問をされて
わたしは私立というのがなんだかわからず、「手術」だと思って
すごく怖かったのを覚えている。

そういう子であり、いつも好き勝手にダンボールなどで
工作しては一人で遊んでいるような子が、

「私立に行きたい」など、自分から言うか???


父はよく言っていた。
「選択肢は多いほうがいい。可能性はないよりあったほうがいい。
私立に行ったからといって、エライ人になる必要はないが、
何かやりたい、なりたいといったとき、選択肢は多いほうがいい」と。


Aby、私立にしなさい。と言っているのと、変わらない。


ここでも、わたしは、「やれる」と思ってしまったのだ。
そうやって、自分の意思がわからなくなるほど、自分の意思は秤にかけられ、
父の望むような道を歩いた。だから言うのだ、


「わたしの子は世界一だ」と。


父は恥ずかしげもなく、「その子どもたちを育てたのは、誰でしょーう」と
酔っては話していたが、こんな馬鹿げた発言に、なぜわたしは怒り一つ覚えず、
つきあい笑いをしてあげていたのか・・・


それにわたしは父が、実は、こわかった。


・・・


父はわたしに暴力をふるうことはなかった。
罵声を浴びせることもなかった。

でもどこかこわかったのは、
よくこんな話を自慢げにしていたからだ。

「若い頃(←といっても父が大人になってからのこと)は
よく喧嘩した。ヤクザだろうが、なんだろうが、負けたことがない。
あるときは、車道の真ん中でシャツがビリビリになっても喧嘩、
ヤクザ相手だったけど、負けたことがない」

らしい。ニコニコ話す。

お父さんは見かけは優しいけどね、怒ると手がつけられない
くらい強いんだよ・・・と言いたそうに。

何度か、たしかにわたしも父が外で喧嘩をしているシーンを見た。
言葉づかいもすごくて、手も足もでる。同じ人とは思えない。
ふと子どもの方をみると、笑ってる。今思えば、異常だ。

だからわたしは成人になってもどこかこわかったし、
父には反抗できなかった。いやなことを直接されたことはないが、
「父には最後は逆らえない」という思いだけは、たしかにあった。
それは今でもないというと、嘘になる。
何するかわからない人だから。


子どもには直接、言葉も手も出さず、
恐怖を植えつける。


これが毒親でなく、何が毒親だろう。


そして、つねに「Abyの意思」と「父の意思」を、
「わたしに」秤にかけさせて、自由にどうぞ、といいながら、
父のなかで、希望は決まっていた。
わたしはそれを「察して」、それに従った。
「他人の気持ちを察しなさい」と教え続けたのは、
母だったが、父はそれをさらに利用した。


父の手口は、母以上だったのではないか。


・・・


子どもの頃、わたしは、なんだかわからないけど、
毎日が「こなさなければならないこと」でいっぱいになっていき、
どんどんこなさなきゃ、こなさなきゃ、と
はい次、はい次、って感じで毎日を過ごした。


わたしの子ども時代を一言でいえば、
「こなす日々」だ。


そして、束の間、
妄想にふけった。


この妄想だけれど、最近、自分がどういう妄想を
その時しばしばしていたが、思い出した。


妄想のなかでは、わたしはつねに一人。


まわりに誰かいるかもしれないけど、それはオブザーバーで、
わたしが一人主人公で、一人舞台で、わたし一人の権限で、
わたし一人が当然のように、わたし一人やりたいことをやっている。
誰にも束縛されず、自由に考えていい時間。
床についてから寝入るまで、しばしば妄想した。


習い事もそうだったけど、わたしはチームプレイが苦手で好きじゃなかった。
誰かと何かをする、というのが、好きじゃなかった。
また誰かが決めた何かをなぞるのも好きじゃなかった。

わたしは自分の決めたルールで、自分の判断で、
白紙から何かを作るのが大好きだった。
だからプラモデルとかはとても苦手だった。
出来上がりが決まっていたから。
その当時のわたしにとっては不毛に感じた。
わかっているものをやることほど、わたしにとって
つまらないと感じたことはなかった。

また誰かと何かをやるのも、気を遣うだけで、
まったくそんな気を起こすこともなかった。
友達と遊ぶのも、基本、好きじゃなかった。面倒くさかった。
つねに「つきあっている」といった感じで、その時間が
「早く終わらないかなー」といつも終わっていた。


つねに、こうやって「こなして」いるだけ。


思うに現実社会で、わたしは、
まったく思い通りじゃなかったのだと思う。
妄想のなかだけが、わたしのイメージの世界。
誰も入ってこられない世界。


このイメージの世界を、わたしは20歳くらいまで
細々と持っていたような気がする。
ただこの妄想は、わたしのなかで「叶ったことがない」もので、
「これから叶えなければならない、大きな課題だ」という
感覚が、いつも、あった。

だから、目の前の現実は、いつも違う、何か違う、
ここではない、別などこかだ、新しい何かを作らなければ、
という焦りばかりだった。


わたしはこの自分の状態を今まで
「おかしい」と捉えたことがなかった。
これだけ恵まれた家庭に育って、学校にも行けて、
衣食住も足りて、なのに何か「やりたいことができていない」となれば、
わたしの努力が足りない、わたしがダメなんだ、と。
なんとかしよう、なんとかしよう、そればかりだった。


おかしい、と思わずに、
「解決すべき、なんとかすべき課題だ」と、
自分にはっぱをかけていた。
ここに不快を感じとろうとする余地はなかった。
不快は感じてはいけないものであり、不快を感じるような状態にいるとしたら、
不快だなどと恥ずかしげもなく言ってはならず、
それは、わたしのいたらなさだと、当然のように思っていた。


昨日、わたしは久々に音楽をきいてみた。


ある歌い手さんの動画だったが、見ていて
目頭が熱くなった。


どうしてわたしは小さな不愉快を、不愉快だといわなかったのだろう。
どうしてそのままにする、ということができたのだろう。
不快をそのままにしないことこそ、妄想であったとしても
わたしのイメージの世界だったのに。
こうやってこの人は歌っている。一人で歌っている。


わたし一人の世界。


「もっと自分の世界を生きたかった」と何度か書いたけれど、
その自分の世界と、わたし一人の世界とは、どこか違う。
わたし一人の世界には、そもそも、わたししかいない。


でもそんな世界、一度も見たことがない。
わたしが見ている目の前の世界は、
「とっととすませなければならない事態」としか思えない。
だから、焦る、こんなことしてる場合じゃない、早く早く。


だんだん、わからなくなってきた。


でもどうして父や母は、「すごいねー」とかほめるだけで、
「もう我慢しなくていいよ」と言ってくれなかったんだろう。
そう、Pさんも同じ。「すごいね」とはいうけれど、
すごいね、なんて言われたいわけじゃない。


「他の人、他のこと、しなくていいよ。」と
どうして言ってくれなかったんだろう。
わたしがどう感じているかなんて、まるで関心がない。


やりたいことをやってもいいよ。でもね・・・と
どうしていつも「でもね・・・」がくっつくのか。



卑怯だ。



 ◇ ◇ ◇
 10月11日(金)
 ◇ ◇ ◇


昨日のうちに書ききれず、今日付けで書きます。

昨日仕事が終わって、自分の過去のことがすごく気になり、
夜になって外を歩きながら、母に事実確認を
電話ですることにした。

わたしはずっと、自分の人生は、自分で決めてきた、と
思ってきた。


はたして本当なんだろうか?


私立に行きたいと自分が決めた、というのは
本当だろうか。なんでこんなにも、自分が決めたことなのに
忘れてしまうものなのだろうか?

事実確認のために、母に電話をした。
事実を聞き逃さないように十分な配慮をして。


母は、正直に話をしてくれた。


「Abyに関しては、完全に親が敷いたレールに乗せてしまったわ。
私立だって、Abyが自ら行きたいと言ったわけじゃない。
もちろん、いやだも言わなかったけれど。お父さんもお母さんも私立に行ったし、
その当時は公立の学校も荒れていたから、できるかぎりのことをしようと、
当然のように、私立に行かせた」


耳を疑った。初耳も初耳だ。


あれほど、Abyは自分の意思で何でも決めたんだよ、と
お父さんもお母さんもわたしに伝えていたのに・・・
習い事もたくさんやっていたけれど、わたしは当然それも
自分がやりたいと言って、それでやった、と理解している。


「じゃあさ、たくさん習い事をやってたけれど、親の希望で
やらせたものってあるの?」

ときいたら、

「親の希望で決めたことばかりだったんだよ。
あの頃は子育てがまったくわからずに、やみくもに
できるかぎりのことをやらせなきゃと必死だった」

と母は、居心地悪そうではあったが、わたしが責め口調で
なかったためだろう、正しい情報を求めたわたしに、
可能なかぎり、正確に話そうとしていた。

でもどうして、わたしは自分で自分のことをすべて
決めたって思っているのかな?
と、たずねてみた。


つまり、こういうからくりだった。


「やるからには、自分でそう決めたんだから、
どんなにつらくても投げ出さず、我慢して最後までやりなさい。
どうする、やるのやらないの?自分で決めなさい」

というふうに、わたしの両親は、幼少期からこの手でずっと
わたしに判断できるわけもない「同意」を求めてきた、
ということだった。


親の意思を、わたしの意思にすりかえた、ということだ。


それも一度はじめたら、その後もずっと、成人してからも
「自分で決めた道なんだからね」と、母と父は言い続けた。
洗脳し続けたのだ。


こうなったら、もう一つきいておこうと思った。
さすがにそこは、嘘をつくだろうなと思ったが、
正直に母は答えた。


「我慢しろって、言ったことある?」

ときいたら、

「もうそれはたくさん、たくさん、言った」

と。

「嫌だって、わたしが言ったことはあるかな?」

ときくと、

「Abyは本当にいい子で、嫌だと言ったことは一度もない」

と。


だんだんきいていて、両親に対してではなく、
わたし自身がここまで「生気を失ったような人間」だったとは思いもよらず、
今まで理解していた「自分像」とのギャップに、頭がついていかなかった。

わたしはずっと、すべてのことを自分の意思で決めてきた、
と思っていた。だからこの違和感も、何もかも、自分で選択したことの結果であり、
やりたいことをしまくった挙句に、この年になっても、未だ何ひとつできず、
不満タラタラな人生を送っているのは、自分のせいだと、自虐的とも思わず、
まったくその通りだと思っていたのだ。

それなのに、天地がひっくりかえるようなことを
さらりと言われて、何も言えなかった。
怒りも恨みの感情もどうやら麻痺している。
「なんで自分は馬鹿だったんだろう」としか
電話をきってからも、それしか、思えなかった。


これだと母の巧みな調教に見えるが、実はここにはつねに、
父の操作があったことが、母の話をきいていてわかった。


「お父さんは、自慢が好きだったから、自分がやらせたいと
思ったことを、Abyにやらせようとしていた。わたしも、お父さんが
そういうなら、ということで、選択肢や可能性は多いほうがいいと思って
賛成した。何度も何度もきかされて、わたしもそうだと思いこんでいた」


さらに母の話をきいていてわかったのは、あの

「あるにこしたことはない」

ということを、執拗に言いまくっていた父こそ、
この洗脳の主犯だ、とわかった。
もちろん母も共犯だが、父の毒っけは相当だった。

実際、「Abyは自分で決めたんだから」という声が残っているのは、
わたしのなかで、90%以上、父の声なのだ。
父は、いかにもわたしが自分の意思で決めたかのように錯覚させ、
「自慢の子」を作りたかっただけだった。

母も同じことを言った。

「お父さんはね。自慢の子を欲しかっただけよ。それだけ。
だいたい、逆らうと怖かったでしょ。いつキレるかわからないし。
子どもには暴力振るわなかったけど、あのキレ方を見ていたら、
誰だって危ないと思って、逆らえなくなる。わたしだっていつも怖かったよ」

そう母が話をしているうちに、なんだか、わたしが聞き役に
なってしまいそうだったので、とりあえず事実確認ということで
その電話はおしまいにした。


99%、自分で決めていたと思いこんでいた人生。


違っていた。

99%、いや、ほぼ100%近く、両親の意向に従った人生。


まったく違うじゃないか!


この思い違いを、何十年とすごしてきて、
違和感を感じないわけはない。
「こうしなさい。親の言うことをききなさい」と強制されたら、
抵抗もしたかもしれない。わたしはまんまと、騙された。
騙されたほうが悪い、自分を守れなかったわたしが悪い、と
咄嗟に考えてしまい、両親に怒りすら感じない。


「我慢しなさい」


と、相当、繰り返し、強く言ったということだった。
「それでもAbyは、不快そうな態度を一度もとったことがなかった」と
母はそのときのわたしのことを思い出して言った。

不快を感じない人間なんているんだろうか?
でも覚えていない。たしかに、不快そうな態度をとった記憶もない。

なんとかしようと、きっとわたしは必死だったのだろう。
そしてなんとかしてしまったんだ。なんとかしたと思いこんだんだ。

母いわく、「Abyは最後まで文句一つ言わず、何でもやり遂げた」と。


なんということだ。


まだ整理できないでいる。
きいたことで、なぜ自分が混乱しているのか、違和感を抱いているのか、
そこが明らかになったのはいいが、これでは事実誤認が酷すぎる。

わたしが見てきたもの、今わたしの身の回りにあるもの、
人も仕事も生活も環境も、いったい何だったんだろう。


2013.10.11
Aby



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by jh-no-no | 2013-10-11 13:36 | 復元ノート 1


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